これと少し続いているような続いていないような
「……?」
隣を歩く玲央に名前を呼ばれたものの、私はそちらへ振り返ることはできないまま、視界に入った光景に目を奪われたままだった。
私のいる二階から、中庭まではだいぶ距離があるけれど、あの髪の色を見間違えるはずがない。それに、隣にいる生徒の性別だって。
「どうしたの?」
「征十郎くん、いたから」
どれどれ、と私の方へと身を乗り出して、玲央が窓越しに我がキャプテンの姿を確認する。征ちゃんも相変わらずモテモテねえ、と他人事のように呟かれる言葉を、私は驚いて繰り返してしまった。
「相変わらず?しょっちゅうなの?」
「なに、アンタ知らなかったの?」
玲央によるとお手紙だったり直接だったり、既に片手では数えられないほどの回数らしい。すごい。まあ確かに、あんな美少年を放っておくほど草食な女子ばかりではないと思うけど。
「ふうん……征十郎くん、そんなに人気なんだ」
「ていうか、私としてはこっちの方が気になるんだけど」
「どっち?」
「その『征十郎くん』っていうの。いつの間にか呼んでるけど、前は無理無理って言ってたじゃない」
ああ、そのことか。誕生日に頼まれた名前呼びは、しばらく経つと私の中で定着しつつあった。事実、あれはお願いというような可愛いものではなかった気がするけど。
「なんか慣れちゃった」
「あんたがそのうち刺されないか私心配だわ」
「玲央が守ってくれるでしょ?」
「馬鹿言わないで。女の嫉妬は怖いんだから」
巻き込まれるのは御免、とばかりに顔を背けてしまった玲央に、私は苦笑するほかなかった。刺されるって大袈裟な気もするけど、それぐらい、彼の人気は馬鹿にできないということなのだろう。私も巻き込まれたくないなあ、なんてこぼせば、玲央にスパッと断言されてしまった。
「無理ね」
「どうして?私ただのマネージャーなんだけど」
「下の名前で呼んでるくせに、ただのマネージャー?」
そう指摘されてしまうと、何も言い返せなかった。これは彼の命令で、なんて弁解を、一体どれくらいの女の子が信じてくれるだろうか。おそらく皆無に近い。
かといって、私には他になんの言い訳もできない。だって事実なのだ。征十郎くんから名前を呼ぶように言われたことも、私が彼とお付き合いしていないとうことも。本当にただの部活のマネージャーと主将であり、ただの先輩と後輩。後者に関しては、すこし胸を張りづらいけれど。
押し黙ってしまった私に、玲央が振り返ってニコリと笑いかける。一歩近づいたと思えば、ゆったりとした動作で私の横に無造作に垂れている髪を掬っては、笑みを絶やさずに眺めた。近くで見る彼の顔は、キャプテンに負けず劣らず端正だと思う。
「がいつ女の子になるか楽しみだわ」
「……玲央ってば、失礼」
「ごめんごめん、今も十分可愛いけど」
「心のこもってないフォローはいりません」
そう言い返して玲央に一睨みお見舞いすれば、額を小突かれてしまった。そんな怖い顔しないの、なんてお母さんみたい。
「じゃあ聞くけど」
「なに?」
「そのポケットの中で握りしめられてる掌はなあに?」
何を我慢してるのかしら、といつの間にか観察対象が髪の毛から私の手へと移り変わっていて、セーターの浅いポケットへと寒さ凌ぎに突っ込んでいた私の手が白日の下に晒されてしまった。
「女の子に暴力なんてやっちゃダメよ」
「あら、じゃあ玲央ならいいのね?」
「面白いことを言うのはこの口かしら」
むにゅ、と口端を易々と摘ままれてしまい、私は口撃の手立てが失われてしまった。
暴力ってまた極端な、と玲央の言葉に突っ込みつつ、自分でもいつの間にか丸められていた掌に少しだけ驚いていた。寒かったから、なんて言い訳が効きそうにない力加減だったと、自分でもわかっている。
口では平気なふりをしていて、でもその実、本心はそんなに穏やかではなかったなんてことに今更気づく。
ただ格好良くて、頭の切れる大変出来のいい後輩だと思っていた。ドキリと胸が高鳴ることもたくさんあったけれど、それはただのときめきだと思っていた。そう思っていたけれど。
「さあて、このグーは何なんでしょうね」
「………」
答えなど、きっと玲央の頭の中には浮かんでいるはずなのに。私に問いかけてくるあたりが、またずるい。頭のいい人はみんなそうだ。
パッと私の口元と手元を解放すると、玲央は少しだけ面白そうに目を細めた。
「じゃ、私は怒られそうだからそろそろ行くわ」
そう言うとくるりと踵を返してさっさと歩き出してしまう玲央。誰に何を咎められるというのか、私はさっぱり見当もつかなくて、少し首を傾げた。けれど、ふと思い当たった、玲央の頭の上がらない人物。私はもう一度窓の外を覗いた。
「……あ、」
不意にこぼれた私の言葉はおそらく、彼には届いてはいないと思う。けれど、バッチリ目が合ってしまった。私が先程彼を見ていたように、今しがた私もまた、見られていたようだ。
なんと反応すべきかわからなくて、とりあえず、ひらひらと手を振ってみた。私の合図に気付いた征十郎くんが、軽く手を上げる。
こんな単純な動作に、喜びを覚えてしまうのはなぜだろう。
こんな高いところからではなく、もっと近くで彼の名を呼びたいと思ってしまうのは。
「征十郎くん、」
「ああ」
いつもは出さないような、そんなボリュームで階下の彼へと呼びかけると、いつものような調子で返事が返ってきた。私が声を張ったのとは対照的に、征十郎くんは大きな声でもない。なのに、私の耳にはこんなにも明瞭に響く。なぜだろう。男女の差だろうか、少しだけ羨ましくなった。
「何してたの?」
告白されていた、なんて知っていたけれど、意地悪く尋ねてみた。
未だ目撃したことのない、恥じらう姿でも見ることができるだろうか、なんて淡い期待を抱きつつ、私が答えを待っていると。
「を見ていた」
「え、」
自分の名前が挙げられてしまい、予想外な展開が生まれ、私が反応に困っているというのに、征十郎くんはお構いなしに続ける。
「なにやら玲央と仲が良さそうだったね」
「や、別に」
「随分距離が近いなと思ったけど」
「それは、玲央が」
まるで尋問を受けているように、私の釈明を待つまでもなく彼が言葉を重ねてくるので、なぜか悪いことをしたような気分になる。
「何の話をしていたのかな」
最後にして最大の難問を仕掛けてきた征十郎くんに、私は今度こそ何も言えなくなってしまった。
今までの質問にならいくらでも答えられるのに、これだけはどうにも。だって口にしてしまえば、これまた私に分が悪いではないか。
「……言えない、って言ったら?」
「では玲央にでも聞くとしようか」
ふむ、と悩むような素振りを一瞬見せたものの、彼はすぐに解決策を導き出す。そんなわざとらしい演技になんて、私そろそろ騙されないよ。もう出会って何カ月過ぎたと思ってるの。それでも、見えた一つの突破口に、私は隠すこともせずに頬を持ち上げた。
「そこまでして知りたいの?」
見えた勝利の兆しに、私は窓から身を乗り出す。出来た後輩からようやく一本とれるのではないか、そう思ったら彼から目を離せなくなってしまった。でもやっぱり、それが仇になってしまった。
「ダメか?」
さっきから、私の答えられないような問いかけばかり投げてきて、私にいったいどうしろというのだ。たまには真っ直ぐ言ってくれてもいいじゃない、と、心のどこかで彼の言葉を期待している自分がいる。
「……ダメじゃない、けど」
「けど?」
「私のことばっかりは嫌」
さっきの女の子とは、何の話をしていたのとか。今まで私の知らないところで、一体何人の女の子が彼に言い寄ったのとか。聞きたくないとは思いつつ、知らないままだともやもやして仕方ない。
私の言い様に、征十郎くんは少しだけ目を見開いたようにしたけれど、すぐに、それも消えて。
ああ、また笑ってる。
あの優しい目が、私を見ている。
「僕はのことだけで十分なんだけどな」
ばっちり私の視界に入る彼の、腕がすっと宙へと伸びる。征十郎くんのいる地上と、私のいる二階という高さ。掠りもしないはずなのに、征十郎くんの腕が私の髪の毛を求めるように浮かんで、指が動く。ドキリ、とその仕草に聞こえもしない胸の音が耳元で騒がしく思えた。
「……もう、」
耳にかかっていた髪が、重力に耐えられなくなって前へと落ちてゆく。彼の手に引き寄せられるかのような魔法に、自分の未来を垣間見た気がした。
この手が届くまで
26th,January,2013
title by knobracquer infist