今、どんな気持ちでいるか。彼にそう尋ねられた私は答えることができなかった。自分の気持ちが迷子になっていたからではない。自分の胸の内に溢れる感情など否が応でも悟られずにはいられなかった。はっきりしていた。だけど、それを口に出すことには戸惑いを覚えていたのだ。
嫌な奴だと、最低な奴だと感じていた。他の誰でもない、自分のことをだ。私のことを好きだと言ってくれる、心優しい彼の言葉に、何の感動も覚えていないくせして私は頷いて、忘れらない男を脳裏にちらつかせながら彼と付き合い始めた。彼とは、男女の手順をきっちり順序通り踏んでいったのに対して、頭の中の男とは手すら繋いでいないのに、私の恋愛の天秤は届かない脳裏の男への気持ちを重くし続けた。現実が破局するのなんて、時間の問題だった。
何をしてくれたわけでもなく、自分が何をしたわけでもないのに募り続け早数年のこの気持ちを、私の嘘っぱちな笑顔に騙された彼は、最後の最後、別れ話をするときにするりと見抜いてくれた。他に好きな人がいるんだね、とか、そんな風に言われた気がする。罪悪感でイエスと断言することも、頷くこともできなくて、ただ俯いていた私に向かって、彼は尋ねた。

「今どんな気持ちでいるか、なぁ」

問いに答えられないでいる私を、彼は置いて先に帰った。けれど去り際に一言、「ごめん、忘れていいよ」と残された言葉に、どことなく申し訳なさのようなものが滲んでいて、ますます私は苦しくなった。彼に謝ることなんてひとつもなくて、悪いというなら私の方で、なにもかもの悪意を押し付けて去ってくれていいのに、彼はそんなことはしなかった。

「結構なこと聞く奴だな」
「悪い人ではないんです」
「なんだ?フラれたくせにかばうじゃねーの」
「別に……あの人のこと悪く言いたくないだけですって」

目の前の男が、私の答えになんとも不満そうに鼻を鳴らしては、カラン、と浅めのグラスに浮いた氷を指でくるりと回す。そんな雑な仕草は彼とは正反対だ。私が付き合っていた彼は、ワイングラスを優雅に揺らして香りを楽しむような、そんな男の人だった。そんな風にまったく違うタイプの人と付き合えたら、好きになれたら、忘れられるかもしれないと、浅はかにも考えたこともあった。初恋にも似た感覚でくすぶり続ける、この男への──諏訪洸太郎への気持ちを。

「フラれたっつーから愚痴るのに付き合ってやるっつってんのに」

罪悪感やら後悔やらで、諏訪さん曰く「この世の終わりって顔」をしていた私は、ボーダー本部近くでふらついていたところで諏訪さんと出会った。金髪でタバコ、なんてナリをしていても面倒見はいいこの人が、えらく落ち込んだ私を見て放っておくはずもなく。大体の飲食店は看板を引っ込めてしまうような時分だったから、諏訪さんは私を居酒屋に連れてきた。

「そんなこと言って、ホントは自分が飲みたかっただけじゃないんですか」
「相変わらず可愛くねぇ奴だな……そんなだからフラれんだぞ」
「そういうことズケズケ言っちゃうから彼女できないんですぅ」
「っせーな」

私がそう言うと、諏訪さんは言い返す言葉が見つからなかったのか、手元のグラスを一気に煽った。あれ、確か中身は焼酎じゃなかったっけ。以前飲んだ時の口内に広がった苦さを思い出して、私はつい顔をしかめる。ロックの蒸留酒なんて一気飲みできるほど私はまだ大人でもない。年こそひとつしか違わない私たちだけど、お酒の経験には天と地ほどの差異があった。
──だというのに。

「あ、コレ。ダブルでおかわりふたつ」

諏訪さんはちょうど通りがかった店員さんに自分の飲み干したグラスを掲げてそう注文した。二つ、という言葉になんだか嫌な予感がして、なんで二つも注文したのかを聞いてみると、諏訪さんは「ん」と顎で真正面に座る私を指して、さも当然と言わんばかりにお前のだよ、と答えた。

「え?私飲むなんて一言も、」
「そんなジュースみたいなもんばっか飲んでるからいつまでも辛気くせぇ顔したまんまなんだよ」
「……余計なお世話です」

アルコール度数の高いものを飲んだからといって、この胸にうずく苦い気持ちが晴れる保証なんてどこにもない。酒豪理論は全くもって非科学的で、だからそれに、ハイそうですか、と頷かなくたっていいのだけど。

「おら、一気に飲んじまえ」

周りにはもう他のお客さんが誰もいないせいか手際よく店員さんが運んできたグラスを、諏訪さんがぐいぐいと私に押し付ける。これっぽっちしかねえんだから、とか最後に一杯飲んでけ、とか畳み掛けるようにそんなことを言うので、断るのもなんだか面倒になってしまって、私はついに汗の浮かび始めたロックグラスを受け取った。指先にヒヤリとまとう感覚が、その一瞬だけ意識をハッキリさせる。目の前の諏訪さんがニヤリと笑ったのがわかった。あーあ、なんか企んでるんじゃないか、と私はこの時初めて悟ったのだ。既に後戻りはできないタイミングだったけれど。

「じゃ、お前の失恋にカンパイ」

にやっと不敵に笑った諏訪さんが、そう言って自分のグラスを私のそれにぶつけてくる。何がそんなに楽しいのだろう、と思ってしまうくらいには、諏訪さんの笑顔がこのヤケ酒の席のなかで目立っていた。私が話したのは彼にフラれたという辛気くさい話だけなのであって、間違っても笑みがこぼれる類いの話ではないというのに。

「……なんか、諏訪さん楽しそうですね」
「あ?そうか?」
「にやにやしてません?」
「ニヤニヤなんてしてねー。……けどまぁ、なんだ。お前も酒とか飲める年になったんだなぁと思ってよ」

そう言って、諏訪さんは軽やかにグラスを煽った。もともと然程多くもない中身が、あっという間に彼の中へと消えていく。思ってもみなかった言葉に、私は微妙な表情で諏訪さんを見つめた。

「別に、歳なんていっこしか変わらないじゃないですか……」
「そーだけど。俺ん中でオメーはガキの部類に入ってんだよ」

ガキ。今まで諏訪さんに何度も言われたことのある言葉。そりゃあ、私が諏訪さんと出会ったときは文字通りガキで、世間知らずで、お酒も飲めない年齢だったから、お子様というカテゴリに振り分けられたのも仕方ない。けれどそれからもう何年も経って、私だってそこそこの経験をして、ハタチに、大人になったのに、諏訪さんの中では多分まだ、化粧の仕方も知らない私のままなのだと思うと悔しくなった。

「……私、もうガキじゃないです」

だから負け惜しみのようにそんなことを言って、私は手にしていたグラスを一気に傾けた。持ち上げたグラス越しに、少しだけ意表を突かれたような諏訪さんの表情が見えた気がしたけれど、その光景に胸がスカッとすることもなく──というのも、焼けるように喉を通りすぎていくアルコールに対処することで私は手一杯で──そんな彼の表情は、ぼんやりとした私の頭にこれまたぼんやりと浮かんだだけだった。それが、私が思い出せる居酒屋での最後の記憶だった。


◇◇◇


「あ、諏訪先輩!」
「げっ」

至極嫌そうな顔で振り返る諏訪さんは、今より数段若い成りをしていた。制服だし、口元に煙草もないし、金髪でもない。数年前の、高校生の諏訪さんが立ち止まって私を振り返る。私はそこに駆けるようにして隣へ並ぶ。今日こそトリガーの扱い方のコツを伝授してもらいたい、と目を爛々と輝かせてそこにいるのだ。数年前の、高校にも進学していない、まだ中学校の制服を着ている私が。

「教えて下さいってば!アサト……アサル……ト、アサルトライフルっていう銃型トリガー!」
「名前もまともに言えてねーやつに何を教えろってんだ」
「うっ」

中学もそろそろ卒業が見えてきたかという頃に、私はボーダーに入隊した。試験を受けて晴れて訓練生になれた私を待っていたのは、とにもかくにも勉強の日々だった。トリガーの使い方、トリオン体の構造、敵との戦い方。ごく普通の中学生として暮らしていた私が知るよしもないことばかりで、耳慣れないカタカナの羅列に苦労したものだ。学校のように一から何かを順序よく教えてくれる先生がいたわけではなかったから、己で学んでいく他なかった素人時代が、今は懐かしい。
C級からスタートして訓練を積んでB級を目指す過程で、私に必要だったのは戦闘員としての基本スタイルとなるメイントリガーを決めることだった。幸いにも恵まれたトリオン量を有していたので、私はすぐに銃手を選んだ。そこに迷いがなかったのは、私の理想像が既に固まっていたことにある。
諏訪さんは私が入隊した時には既に、その手にアサルトライフルを構え、B級隊員として数々の任務をこなして活躍していた。だから私は、憧れに近づくために、近くで教えてもらいたいと何度も頼み込んでいた。けれど諏訪さんの答えは決まって「ノー」だった。

「お前はトリオンがでけえし、頭もそこそこキレる。戦略のセンスもある」
「……それは、何度も聞きました」
「お前が考え変えるまで何度も言ってやるよ──お前はガンナーよりシューター向きだ」

諏訪さんは、いつもこう言って私に射手へ進むように促した。私はどうしてもそれに素直に頷けなくて、かといって諏訪さんの言うことを無下に撥ね付けることもできなくて悩んだ。C級の訓練生としては一種類の武器しか所持できないから、結局はアステロイドを自分の武器として選択したけれど、本部で訓練をするときは射手用のトリガーのほかに銃手用のトリガーも訓練していたものだ。
銃手になることをなかなか諦められなかった理由、それは一重に、私の理想が銃手であったからだ。もともと私がボーダーを目指したのは、ネイバーに襲われた私や家族を助けてくれたボーダー隊員に憧れたからであり、その人が銃を構えて果敢に立ち向かう姿に理想を抱いたのであり、何を隠そう、その理想の人こそが諏訪さんだったから、私は彼に近づきたかった。本部に行って諏訪さんを見つけては、声をかけて銃手としての教えを請うた。何度もそんなことを繰り返して、煙たがられることにも諦めが見えてきたころからは、特定のトリガーの扱い方に拘らず、戦い方や他、彼の経験から語られるいろんな知識を尋ねるようになって。そうしてめでたくB級に昇格した頃には、私にとっては諏訪さんが、ボーダーの中で一番追いかけたいと思わせてくれる背中であることは揺るがないものになっていた。

憧れと理想と、信頼とを織り混ぜたあの気持ちは一体なんと呼ぶべきなのか、今でもわからない。ただ着々と、先輩と呼ぶことへの愛着を募らせていたのは確かだ。姿を見つけたら嬉しい、話すことができたら楽しいと思うくらいの、まだ曖昧でいられるラインのところでいたはずが、ある日、自分が恋慕へと足を踏み入れていたことに気づいたのは、知らず知らずのうちに見たくない、知りたくないと目を覆っていたことに自覚が生じたからだ。誰か他の人と楽しそうにしているのを見るのが辛い、そういう嫉妬心の芽生えに。
諏訪さんに彼女がいる、そのことを知ったのは高二の頃だった。尋常でない胸の痛みと悔しさに襲われて、私は失恋を悟った。辛くなって諏訪さんの傍にいられなくなって、本当はまだ銃手になることを諦めたくはなかったけれど、憧れに憧れたままではいられなくなって、トリガーチップを完全に射手として入れ替えた。そのおかげか、ボーダー隊員としてはそこそこ成長していくことができた。でも年を重ねて、私も諏訪さんも学生服を脱ぐことになって、髪を染めて、諏訪さんは煙草なんか吸いだしたりして、私も好きでもなんでもない人と付き合い始めたりしても、幼くて、未熟で、大人のように諦めることのできなかった私の気持ちはずっと変わらないままだった。


◇◇◇


ひやり、と頭に冷たい感覚が流れた。

「お、起きた」
「……諏訪、先輩?」
「なんだ、急に昔の呼び方しやがって」

ぼんやりとした頭で目を開けると、まるで冷えピタのように額にペットボトルが当てがわれていた。冷たさの正体はこれか、と理解が追いつく。ほらよ、とその飲み物を目の前に差し出されたので、大人しく受け取る。どうやら私の為に用意してくれたものらしい。頭に、掌に宿るひんやりとした感覚が、私の頭を徐々に現実へと引き戻していった。見慣れた景色は、ボーダー本部近くの公園のものだ。自分が腰を下ろしているベンチにも覚えがある。

「寝てたな?お前」
「あー……そう、かもしれない?」
「ったく、寝るなっつったのによ……」

やれやれ、といった風にため息をついたあと、諏訪さんも私の隣に並ぶように座った。寝ていた、ということは、あれは夢だったのか、とぼんやりと思う。まだ私も諏訪さんも制服を着ていた頃の思い出。ガキと言われていたガキの頃の私。
現実と夢はどこから入り交じってしまったのだろう、と私は思いを巡らせて、ようやく居酒屋で諏訪さんと飲んでいた事実を思い出した。
強いお酒を口にしたあたりから、途切れ途切れの記憶しか見えないけれど、確かあれが最後の一杯だったように思う。それから気がついたら諏訪さんがお会計を済ませていて、店出るぞって言われて私も立ち上がったのだけど、ふらついてまっすぐ歩けなくって。教科書通りのような酔い姿になった私を呆れたか同情でもしてくれたのか、ちょっとだけ休む話になったのだ。諏訪さんに引っ張られるがままについていった先の公園のベンチにひと段落した私は、諏訪さんがこのミネラルウォーターを調達してきてくれるものの数分の間に、こくりこくりと舟をこいでいたみたいである。さすがにこの夜中に外で居眠りなんてシャレにならない。はやくアルコールを分解してくれますように、と祈りながら、私はペットボトルの中身を喉の奥へとごくごくと流し込んだ。一度はお酒のせいで焼けるような感覚さえ抱いた喉元が、ひんやり落ち着いていくような心地が気持ちよかった。
私の隣で諏訪さんもまた、自分のために買ってきたのであろう飲み物を口にしていた。ラベルを覗いて、それがブラックコーヒーであることに気づく。

「諏訪さん……コーヒー?」
「お前と違って俺は酔ってねえからな」

成程、酔いざましに、ではないらしい。淀みなく答える諏訪さんに、相変わらずお酒に強いんだなぁと、そう感じた。私なんて、それまでカクテルや果実酒のような甘いお酒ばかりで、最後にひとつ強めの焼酎を飲んだだけで頭がふらふらになるというのに、頭からウィスキーや日本酒を頼んでいたはずの諏訪さんはけろりとしている。

「いいなぁ、酔わないの」
「……そうでもねえだろ」

弱いよりは強い方がいい、そう思う私とは反対に、諏訪さんはそんなことはないと否定した。加えて、「特に、今のお前は」とも言う。その言葉で、彼の言わんとしていることをなんとなく悟る。

「パーっと酔って、パーっと忘れちまえるのが一番いい」

忘れてしまえばいい、という点においては私も同感である。次へ進むために嫌なこと、辛かったことを忘れてしまうのは、それはそれでひとつのやり方であるし、何でもかんでも教訓にして前へ向き直ることなんてできやしない。スパッと記憶から消してしまうのもまた一考である。

「それ、諏訪さんの体験談?」
「まーな」
「そーいえば諏訪さん、前の彼女はフラれて終わったって言ってましたもんね」
「オイ、誰が言いふらしてんだそれ」
「太刀川に聞きました」

同級生の名前を出すと、諏訪さんはもとの顔を更に険しく歪めて「あの野郎ォ……」と毒づいた。二人と、それから冬島さんや東さんはよく麻雀の勝負をしていて、お金以外のあらゆるものを賭けの対象にしているらしい。諏訪さんが勝負に負けて話したネタが、太刀川を通じて私に届いたというわけだ。
諏訪さんの前の彼女、それは私が高校生の頃に失恋を悟った時の女性。かの人と関係が終わったことを知ったときの私の心境は言わずもがな、同情より喜びが勝ってしまったのだけど、よくよく考えれば諏訪さんはフッた、のではなくフラれた、のである。表面上は関係が終わったとはいえ、内面はもしかしたら、まだ気持ちが残っている可能性もないわけじゃない。
それに、今の諏訪さんの言葉からしても未練が残っていても不思議じゃ無さそうだと思った。忘れたいことがある、けれどうまく忘れられない、そんな口ぶりだった。加えてかの女性にフラれてから今に至るまで、時間は空いているのに、諏訪さんには浮いた話ひとつない。
それが意味するもの、たとえどんなにアルコールが入っていたって私は理解できる。フラれた彼女に今でも思うところがあるか、本当に全く女っ気がなくなってしまっただけか。どちらにせよ、私という存在はただの後輩のガキの域を出ないことは確かだ。そしてそのことを痛感するたびに、やっぱりどこか悔しさを覚える心は、本当に正直だった。忘れようと思って他の誰かと付き合っても、結局忘れられないで、どうしようもできないと諦めているくせに、諏訪さんの心にいるかもわからない女の影を思うと嫉妬でお酒の味がよみがえってくるような熱さを感じる。
そうして矛盾だらけの私は、きっと聞いたら嫌な思いをするに決まっているのに、聞かずにはいられなくて口を開くのだ。

「……諏訪さんにも、忘れられない人、います?」

諏訪さんは何も答えなかった。うんともすんとも言わずに、私と真夜中の静かな空気を共有していた。それはまるで無言の肯定のようだった。誰かを思い出しているのかもしれない、そう思ったら、ぎゅっと胸を締め付けられるような切なさに襲われた。さっきまでも、散々面と向かって二人きりで話して、お酒を飲んで笑いあったりしていたのに、今、他の誰かを想っているかもしれない諏訪さんの横顔が、今夜一番私の心の中にくっきりと残ろうとしている。
嫌だ、そんな諏訪さん、私の中に残したくない。そんな記憶、ぐしゃぐしゃにしてしまいたい。そんな気持ちが溢れた。

「諏訪さんっ」

諏訪さんを振り返って、私は思い切り彼の襟元を掴んだ。どこぞの不良がケンカを売る度にそうして胸ぐらをつかむ姿をドラマや映画で何回も見たはずだったのに、現実では上手くいかなくて、思わず諏訪さんの顔が私にぶつかりそうなほど近くになってしまった。煙草吸ってたらきっと、私のほっぺは火傷していた。そうしたらきっと、私の話を聞くどころではなくなるくらい諏訪さんは慌てていただろうから、良かった。

「諏訪さん、私、ずっと好きで、でも忘れられない人がいる」
「は、」
「諏訪さん、私、その人のことがすごくすごく好きで。でももう叶いっこないから、忘れたいのに、だから違う人とも付き合ってみたのに、なのに忘れられない」

目をこれでもかってくらい大きく見開いた諏訪さんの顔。彼は今、私だけを見ている。この世にある、ありとあらゆるものの全てを押し退けて、そのてっぺんに私がいる。その事実は、目眩がするほどに魅力的で、夢かと思ってしまう。でももう、夢でもなんでもいい。お酒に酔った勢いでもいい。明日何もかも忘れてしまっててもいい。この瞬間を、今この時だけ、覚えていられればそれでいい。

「諏訪さん、あなたのことです」

だから、と続けようとした私の声は、そのとき初めて自覚したのだけど、少し掠れていた。緊張なのか、捲し立てるようにしゃべったせいで息切れたのか、よくわからない。けれど息を吸うと、ひゅっと音がして、深夜の空気が私の喉を引っ掻いていくのがわかる。泣きそうだ、私。泣きたくなるくらいに、心が震えている。

「だから、今夜だけ、それで思い出にして、忘れるから」

嘘っぱちをこれでもかと並べ立てた。きっと今夜だけの記憶になんてできなくて、思い出なんて美しいものでなく、きっと傷のように醜いもので、忘れることなんて出来っこなくて、きっといつまでもぶり返す切なさが私の心を占めるに決まっている。

「だから、諏訪さん、一度だけ、キスさせて」

本当は、諏訪さんのなにもかもが欲しいと声を大にして言いたい。声も、心も、キスも、身体も、全てを一度だけでいいから味わいたいと願っていること、そんな自分がいることは自分が一番よくわかっている。けれど多分そんな私を知ったら、私のことをいつまでもガキだと笑う諏訪さんを幻滅させるような気がして言えなかった。こんな迫り方をしていて今更な心配事だけれど、そこが、私と諏訪さんのボーダーラインのような気がした。何年も前から続いてきた、決して友人にも、ましてや恋人にもなれなかった先輩と後輩の最後のプライドのような、限界。
この結末が、私の望みを叶えてくれるのか、それともバッサリと拒まれるのか、そのどちらであっても、限界を越えることはないと、私はそう思っていた。

「諏訪、さん」
「…………クッソ、」

なのに、一瞬にして、頭が真っ白になった。だって、諏訪さんがようやく私にしたことは、キスでもなく、押し返して距離を取ることでもなく──ぎゅっと、私をその腕の中に閉じ込めることだった。

「『諏訪さん、諏訪さん』って呼んでたのに。俺は、お前の、ただの先輩だったろ」

私を引き寄せた腕力は、遠慮という二文字を知らないような強さで、息もできないような苦しさだった。けれどそれ以上に、私の心臓が締め付けられる。聞きたくないような、聞きたいような、諏訪さんの言葉は続く。

「ただのガキだろ。ただの後輩だったろ、お前。なのに、なんで、そういうこと言う」

思わず、ごめんなさいと、そう言いそうになった。その代わりに、もうなにも言わないでほしくて。けれど私が反論を挟む余地も余裕もなかった。

「俺はフラれたけど、ようやくお前に男できて、なのに、なんでフラれんだ。なんで、」

その言葉は、どこか、私に発しているようで私に向けてはいない気がした。今は、諏訪さんの顔を見ることは叶わなくて、どんな表情を浮かべているのかわからないから、余計にそう思う。

「……なんで俺、お前がフラれたの嬉しかったんだろうな」

ゆるりと、少しだけ諏訪さんの私を囲う力が抜けた気がした。少しの息苦しさがなくなって、私の心臓も切なさが薄れて、代わりに血の巡りが良くなったかのようにどくどくと忘れていた鼓動を打ち始めていた。

「お前に男できたって聞いたときは、お前取られた気がして何でかイラついてたし」
「……え、」
「今も、忘れるとか言うお前に何でか腹が立つし、悔しい」

なんで、どうして、そう言いたいのは私の方だ。疑問に感じることはたくさんあるのだけど、とりあえず一番に確認したいのは、この耳に届く言葉が夢か現実か、どちらなのかを確かめたかった。そうでなくては、まるで自分の都合のいいようにしてしまった解釈が頭を占めてぐるぐるしている。

「諏訪さん、とか諏訪先輩、とか。犬みてえに懐いてきて、こっぱずかしいくれぇにあんだけ好意向けといて、それで気にならねえわけねえだろ」

はじめよりはやや緩くなっていた諏訪さんの腕が、完全に解放されたのと、お返しとばかりに私の胸ぐらを掴んできたのはほぼ同時のことだった。力強さ、距離感、威圧感。諏訪さんがやると、まるでお手本のように仕上がっていた。

「忘れられない奴?いるよ、違う女と付き合ってるのにずっと俺の頭から出ていかねえで、そうやって俺のことたぶらかしといて他の男作って勝手にフラれてる奴だよ」
「な、」
「そのまま勝手に上手くいって、どうにでもなっちまえばいいのに、なんだよ、なんだよお前……俺が忘れられないって?」

怒ったように眉をしかめて、睨むように私を見つめる諏訪さんの瞳を、私はそらせずに見つめ返していた。怖かったからではない。だって、どうしてか、諏訪さんの口元は不敵に笑うように緩く弧を描いていた。そんな諏訪さんの表情に、私は目が離せないでいたのだ。

「なんだそれ、最高の殺し文句だ」

まるで喧嘩を売るような強気の視線が、私の瞳の奥の奥を射殺すように貫いた。心臓を持っていかれたのは、こっちの台詞だ。こんな諏訪さん、私は知らない。先輩らしくない彼の迫力に、背筋をくすぐるような何かが走った。たまらなくなって、私は目を閉じた。その一瞬に、まるで掠めとるように、唇に何かが触れた。少し苦さが残るコーヒーと、ふわりと漂う煙草の香りが、その主を教えてくれた。

「……諏訪さん、私、このキス忘れない」
「ファーストキスでもねぇくせに、よく言う」

そんな憎まれ口を叩きながらも、諏訪さんはどこか嬉しそうに笑った。

おわりそうなはじっこにまた偶然がおちている

9th,December,2015
title by as far as I know