足先にひやりとした寒さを感じて目が覚めた。無意識のうちに爪先を縮めるように体を動かしたところで、自分が真っ当な寝方をしていなかったことに気づく。枕と思っていたのは己の固い腕で、布団ではなく文机の上に突っ伏している。目を開けて、寝ぼけ眼のまま周囲を見渡し、そこが蝶屋敷の客間の一つであることにたどり着いたとき、ようやく昨日の記憶が手元に降りてきた。
討伐任務を終えて帰路に着こうとしていた折、しのぶの鴉が私のもとに飛んできたのだ。どうやら大掛かりな鬼の討伐があったらしく、蝶屋敷は今夜怪我人の対応に大わらわなのだという。そちらの仕事が終わり次第屋敷まで、と有無を言わせないような圧を乗せた言伝をもらってしまい、私の家路は遠のいたのだった。
言いつけ通りに蝶屋敷まで足を運ぶと、案の定屋敷は忙しない人々でごった返していた。怪我人が到着してまだ間もない頃にやってきた私の仕事は、殆どその要治療者たちを寝床や、臨時に治療処として仕立てられた広間などへ運搬する役目だった。蝶屋敷に勤める子らは、治療事には遺憾なくその手腕を発揮するが、往々にして力仕事に弱かった。手負いで力の入らない隊員たちに肩を貸して歩かせることや、時には丸ごと抱えて運ぶことは、普段刀を振るう私の方がまだ得意事といえた。
隠の人々と協力しつつ、なんとか大方の怪我人をさばいたところで、広間で指揮を執っていたアオイとしっかり話をすることができた。私を呼び出した張本人であるしのぶは、重症者の対応に忙しくしているようで全く接点がなかったが、私の処遇はとうにアオイに任せていたらしい。「治療以外の荒仕事は全部に任せるように」と、どっちが鬼かわからないような横柄な指示に私が天を仰いだことも、アオイだけが知るところである。
それでも私が医療の真似事もできるはずがないので、大人しくしのぶの指示通りの仕事をするしかなかった。アオイは申し訳なさそうにしていたが、年の功で勝る私がそれを譲ることもできない。人を運ぶ仕事が終わった後は、井戸から汲み上げた水を運んだり、治療中に痛みで暴れそうになる患者の体を抑えたり、血塗れた衣服を捨てるか洗うかの雑事に務めた。
ようやく私に割り振る仕事がなくなったと告げられたのは、夜半過ぎのことだった。さすがにこの時分になってまで家路に着こうとは思えず、アオイに広間の一畳でも間借りさせてもらえたら、と申し出たところ、びっくりしたような、同時に怒ったような形相で、「きちんと客間を準備してあります!」とすごい勢いで連れていかれた先がこの部屋だった。布団まで敷いてあったその部屋を用意するよう指示したのは、勿論しのぶの仕業だという。この部屋まで連れてきた時の勢いとは真逆に、三つ指をつくような丁寧な仕草で私に今晩のお礼を述べたアオイがそう教えてくれた。
彼女たちはまだまだ交代で休みつつ治療にあたるというので、私もひと眠りするくらいの気持ちで休ませてもらおうと、そんな心持ちでいたのが、昨日の私の最後の記憶だった。
窓の外を見やる。十分に明けた、とは言い切れなかったが、それでも夜の帳はもう幾ばくかもすれば薄れていって朝となりそうだった。妙な体勢で眠っていたせいか、体の節々が痛む。きっちりの隊服も着たままでは、休まるものも休まるはずがないが、防寒だけは機能してくれていた。けれど脱いだ覚えのない足袋は、なぜかきれいに畳まれて荷物の傍に揃えられていた。見渡した部屋の中には、きれいに敷かれた布団もあり、目に毒だった。もう少しだけ、今度はきちんと布団の上で、と心が揺れてしまう。けれど、静かな明方の空気に混じって、トン、トン、と小さな音が聞こえた。まな板を叩く、ささやかな音だ。
この屋敷にいる間、幾度となく聞いたことのあるその音は、思い出の母親の姿かたちを思い起こさせるようで、少しくすぐったくもあった。同時に、空腹をひどく揺さぶられる。そういえば、昨日は慌ただしくしていたせいで、昼餉以降何も口にしていなかった。道理でぐう、と鳴るわけだ。
再び瞼を閉じたくなる甘い気持ちを押し込めて立ち上がる。その時、するりと肩から滑り落ちた。何か、を振り返ると、そこにはよくよく見覚えのある羽織が落ちていた。

肩口からもう一度羽織を掛け直して、朝靄の漂う廊下を進んだ。食欲をそそる香りに逆らうことなく歩みを続けると、じきに台所にたどり着く。てっきり屋敷の下働きの子たちが朝餉の支度に励んでいるのかと思いきや、そこにいたのは予想外の人、ただ一人だった。
「……しのぶだ」
私の声に振り返ったしのぶは、ちょっと驚いたように目を開いた。
「あら、もう起きたの」
「たどたどしい包丁の音が聞こえちゃったからね」
けれど、その瞳はすぐにすっと細められた。ありありと浮かんだ不愉快そうな表情に、思わず笑ってしまいそうになる。
「珍しいことしてる、料理なんて」
「人並みにはできるわよ」
「いつもはここの子たちに任せっきりなのに」
「あの子たちに任せっきりにするのもどうかと思っただけ」
話をしながらも丁寧に葱を切るしのぶの傍らまで近づいて膝をつく。まな板の脇には切られた若布もあった。具材から察する料理はひとつだ。背後の竈ではふつふつとしつつある鍋もある。その傍に、この屋敷で使われている味噌の壺があることも、私はよく知っている。
けれど、その光景を見ていると、小さな違和感を抱く。視線を戻して作業中のしのぶの手元を見る。やっぱり、どうしてか気にかかる。鍋の大きさも、しのぶが用意している材料も、出来上がる味噌汁の分量はせいぜい一人か二人分しかないのだ。てっきり、昨日の負傷者たちの賄い分を作っているのかと思ったのに。
「どうかした?」
黙り込んだ私をどう思ったのか、しのぶの手が止まる。
「少ない気がして……」
考えのまとまらないうちにぽつりとそう零すと、しのぶは怪訝そうな顔でこちらを見てきた。
「いつからそんな健啖家になったの」
「え?いや、私のことじゃなくて……」
そう否定しかけたところで、ふと思い留まる。出来上がるこの料理、話の流れはまるで私が食べるものみたいだと、そう思い直して、それが正しいのだと気づいた。気づいたけれど、驚きで、しのぶを声なく見つめていると、私の表情から何かを悟ったらしい彼女は小さくため息をついた。
「アオイから、あなたの仕事が一段落したから客間へ案内したって言われたとき、ちょうど私の方も区切りがついたから、夕餉を持って部屋まで行ったのだけど」
気が付くと、しのぶはまな板に豆腐を置いて丁寧に細かく切り始めていた。
「声を掛けても返事がなくて、部屋に入ってみれば着替えもしないで夢の中で。ああ、足袋だけは辛うじて脱いだように散らかっていたけど」
最後に付け加えられた一言だけは、少しだけからかうような声色だったのは、きっと気のせいではない。思い出しながら語る彼女の傍で、目が覚めた時、その足袋がどうなっていたかをもう一度思い出した。折り畳まれていた様子から察するに、それは部屋を訪れたしのぶが纏めてくれたのだろう。きっと、寒くないようにと羽織を掛けてくれたのも。
「客間を用意するんだから、夕餉だって湯浴みだってできると思わないの」
「意外と至れり尽くせりだったのね」
「当たり前でしょう」
怪我、病、その他の面倒事を背負い、約束もなく突如押し掛けるも同然の客人が多いこの屋敷の主にしてみれば、態々招いた客人をもてなすことなど朝飯前だということなのだろう。私の言葉に如何にも不本意だと言わんばかりにツンと唇を尖らせた。もっとも、昨日散々扱き使われた記憶が色濃い私からすると、客人だという感覚は果てしなく薄いのだが。
「お腹を空かせて早々と目が覚めるだろうから、早めに支度をしておこうと思ったのだけど。予想よりうんと早いんだから、まったく、あなたって人は」
呆れるような、それでいて致し方ないと諦めるようにひっそりと微笑んで、しのぶが包丁を置く。一欠片も崩れることなく切り揃えた豆腐や他の具材を盆笊の上に並べ移していく。
「手伝おうか」
「先に顔でも洗ってきたらどう?」
「……そうでした」
ふらふらと寝起きのまま勝手場へと現れたことは、しっかりと見抜かれていたらしい。ばつが悪くなって思わず視線を逸らすと、しのぶは今度こそ隠さずにくすくすと笑みを零した。
「馬鹿ね、今日はあなたに手伝わせることなんて何もないわ」
何も、という言葉が、この場限りの話を指しているわけではないことに気づいて、私は首を傾げる。
「……でも、アオイたちはまだ忙しそうにしてた」
「あれくらいはいつものことよ」
なんてことはないのだと、しのぶは肩を竦めてみせた。
「アオイに怒られてもいいというなら、私は止めはしないけれど」
「はは、それは勘弁したいかも」
この忙しさが日常だというのなら、下手に手出しするのも野暮というものなのだろう。アオイをはじめ、ここで従事する子たちは幼いながらも自分の仕事に対しての責任感が強い。どこぞの屋敷の主にそっくりである。
「それじゃ、私はさっぱりと目を覚ましてくることにします」
よいせ、と立ち上がりかけた時、不意にしのぶが私の腕を引き留めた。

「ん?」
「……昨日、疲れていたでしょうに、手伝いに来てくれてありがとう」
今でこそ、当たり前のように蝶屋敷で怪我人を受け入れているが、元々は、柱の屋敷に過ぎない。なんでもないような顔をして、藤の花の家のように、鬼殺隊の傷ついた仲間を治癒し、静養させる館として機能させているのは、すべては薬学に精通するしのぶの取り仕切りによるものだ。通常の討伐に加えて、家に帰れば患者の手当てだって行わなければならない彼女に比べれば、ほんの少しの間手伝っただけの私なんて労うほどでも何でもないというのに。
申し訳なさそうに微笑むしのぶの眼差しが、私に向けられている。ありがとう、と口では言いつつも、ごめんなさい、と瞳で謝られたような気がした。
「任務終わりの私を呼びつけるなんて、相当だなと思ったので、覚悟してたし」
隊服の裾を掴んでいたしのぶの手を取って、安心させるようにぽんぽん、と相槌を打った。水仕事をしていたせいか、冷え切ったしのぶの手元に、少しでも温かさが宿るように、と念を込めて。
「美味しいお味噌汁でチャラになるよ」
「安上りな人なんだから……」
「たまにはしのぶも甘やかさないと。ね」
少しだけ不意を突かれたような表情で、しのぶの瞳が瞬くのを見た。甘やかす、なんて大きく言ったものだ。怪我を手当てしてもらったり、くだらない相談事に付き合わせたり、時には脱ぎっぱなしの足袋を畳ませてしまったり、面倒をかける割合で言えば、圧倒的に私の方が大きくて、トントンとはいかない。けれど、しっかり者の彼女が、その荷を僅かでもいいから私のところへ降ろしていってくれるといいなと、そんなことを願うくらいは許されるはずだ。
それでもきっと、私の言葉には素直に頷かないだろうから、態と同意を引き出すように笑いかけておく。案の定、しのぶは瞬く内に揺れた心を落ち着かせたようで、すぐに口の端に小さな笑みを浮かべていた。
「まだまだ、貴女を甘やかしている時間の方が多いと思うのだけど?」
「耳が痛い……」
想定していた切り替えしとはいえ、格好がつかない私はきまり悪く頭を抱えるしかない。そんな私にゆるりと「事実だものね」と追い打ちをかけたしのぶは、具材の入った盆笊を片手に早々に立ち上がった。どうやら調理を再開するらしい。私も早いところ顔を洗って、朝支度を済ませてこよう、と腰を上げた。その時、ふと、彼女が昨夜掛けてくれた羽織が未だ己に身に着けたままだったことに気づいて、立ち止まる。
「しのぶ、これ」
鍋の傍に立っていた彼女の肩口から、そっと羽織を掛けた。「ああ、」と彼女も彼女で忘れていたらしき相槌が返ってきた。
「お陰様で、寒くなかった」
「隊服のままで寝てればねぇ」
「優しいあなたの真心の話をしてるの、茶化さない」
私が真面目腐ってそう言うと、しのぶはくすくすと笑みを零しながらも「ごめんなさい」と呟いた。そして、きゅっと大事そうにその襟元を掴んでは、落ちないようにと引き寄せた。あるべき一つの姿に落ち着いたような気がして、私は今度こそ踵を返した。


あまえたひとよ

24th,June,2021