夕暮れ時は学校終わりの隊員たちで賑わっていたラウンジも、夕食の時間が近づけば少しずつ減っていく。それも過ぎて、とっぷり日も暮れた夜九時過ぎになると、遅番出勤の隊員や、内勤の人たちが夕飯を食べに現れる。でもそれはちらほらと数えられるほどで、食堂のおばさんも悠々とおしゃべりしながらご飯をよそったりしているくらい、ラウンジにはゆったりとした時間が流れるようになる。
そんなボーダーの移り変わりを十分に堪能した私は、今、もっと人気のないであろう射撃訓練場へ足を運んでいた。平日のこんな夜遅い時間から特訓しようなんて人間はほとんどいない。が、まれに例外というタイプはいるようで、そのたった一人に会うために、私は何十段とある階段をひとつひとつ降り下っている最中だった。
本来わたしはラウンジで彼が任務から帰還するのを待っていた。友人で、同じボーダーでオペレーターとして働く人見摩子と一緒に。広いラウンジの一角のテーブルで、彼女は自分も時間があるからと私の勉強を見てくれていた。彼女は彼女で夜遅くから防衛任務のシフトがあり、それなりに暇を持て余していたというので、私はそれに甘えていたのだ。ラウンジで待っていれば当然会えるものだとばかり思っていた。殆どの隊員が、夕方の防衛任務を終えたらラウンジで夕食を食べていくのがルーティンだったからだ。
けれど、任務へ出掛けたときは彼と一緒だったはずの荒船だけが先にラウンジに姿を現した。どうしてだろうと尋ねれば、「アイツなら撃ち足りない気分だって、訓練場に行った」ということを聞かされた。それまで私は、ラウンジでたまたま落ち会えばいいや、みたいなことばかりを考えていたから、突然のプラン変更にどうしよう、と躊躇した。彼が射撃訓練場へ行ったのならば、たぶん五分や十分程度で切り上げることもないだろう。彼に会うにはラウンジでなんとなく時間を潰しているだけでは叶わない状況に変わってしまった。けれど任務が終わるのを散々待っていた挙句、訓練場にまで会いに行くって、傍から見たらなんだか私がすごくすごく会いたくて必死な奴みたいじゃないかなと、妙な天邪鬼が邪魔してラウンジから踏み出せないでいた。傍から見るも何も、自分ではそういう必死さを持っていたこと、それほど彼と顔を合わせたかったという自分の気持ちも、よくわかっているのだけど、どうしてかそこに素直に頷けない自分がいて。
けれど、そんな私を見て荒船が「お前、行かなくていいのかよ?」と呆れたように笑ってくれた。近くで話を聞いていた摩子も、少しばかり天邪鬼な私の背中を「行ってきなよ」と穏やかに押して送り出してくれた。同い年のせいか、ボーダー内ではそれなりに交流のある二人だったけど、自分の気持ちがこうも見抜かれていると改めて知るのはなんだか気恥ずかしかった。だからか、去る私の背中に摩子が投げてよこした「頑張ってね〜」との応援には、思わず「別に頑張りません!」と突き返してしまったけれど。
階段をいくつも下って下って、ようやく射撃訓練場のフロアにまでたどり着く。エレベーターを使わなかったのは、階段脇に設置してある自動販売機に立ち寄るためだった。手ごろな缶ジュースをひとつ購入してから、普段は縁のないスナイパーの為の訓練室にお邪魔する。室内に入ったと同時に、私の耳に一発の銃声が飛び込んできた。音の出どころへと顔を向けると、真剣な表情でイーグレットを構える男がいた。といっても普段からあんな感じで、そんなに表情豊かなタイプではないからふざけていても真顔でいるような奴だけど、あの小さなスコープを覗いているときだけは雰囲気が違っている。瞳の渇きなんて構っていられない、そんなスナイパーの性質にアタッカーである私も納得できるほど、その横顔は見ていて飽きない。瞬きが惜しいだなんて、悔しいけど思ってしまうのだ。

「ほーかーり」

ふう、と彼が息つく間合いを見計らって声をかけた。表面上は少しだけ、片眉を動かす程度の驚きで、穂刈が私を振り返る。やっぱりというか、穂刈は私の存在に気付いていなかった。360度周囲を警戒しなければならない模擬戦と違って、今の彼の集中力は、的である銃口の指し示す先にだけ注がれていたのだ。イーグレットを構える穂刈の傍まで近づいていくと、「今まで残ってたのか、お前」と首を傾げられた。その顔にはくっきり、どうして、という疑問が浮かんでいた。
穂刈とは、彼が任務に向かう前に一度顔を合わせていた。といっても私が学校から本部に到着したちょうどその時、穂刈は荒船たちと任務に出発するところだったから、たった一瞬すれ違っただけのことだった。任務も何もない私がボーダーに向かったのは、他でもない、彼に会う為だったのに、その出会いはたった数秒で終わってしまった。「どっか行くの」、と尋ねた答えに穂刈が「任務」とそっけなく答えただけ。彼の応対がそっけないのはまあいつものことだけど、呆気なく終わってしまった出来事に動揺のような、寂しいような、そんななんとも言えない気持ちになって、小さく呟くことになった「いってらっしゃい」はたぶん、彼には届いていなかったんだと思う。私の言葉に振り返るわけでもなくあっさりと立ち去っていったわけだから。
私がここへ来た目的は、別にたった数秒穂刈とすれ違うことでも、いってらっしゃいだなんて見送ることでもなく、ただ一言、お誕生日おめでとうと、そう言いたかっただけだった。今日が誕生日だということは、荒船隊のオペレーターである加賀美から偶然聞いたことだったから、プレゼントなんかは用意していない。折角の誕生日をどうして知っておかなかったんだって、数時間前の私は存分に自己嫌悪をした。その分、顔を見て伝えられたらなと願っていたのだけど、あの一瞬ではそれは叶わなかった。だから穂刈が任務を終えたそのあとで、と出直すつもりで待っていた。
けれど、たかがそんな一言を言うだけに何時間も待つなんて、と普通は変に思うことだ。私だって思う。友達にしては頑張りすぎているんじゃないかって突っ込まれたら、正直言い返せない。本心は友情ゆえに、なんて思っていないからなおのこと。
一緒に時間を潰してくれていた摩子には、用のないボーダー本部に何時間も居残ることについて深く突っ込まれはしなかったものの、なんだかにやにやした顔で見られた。ラウンジで私に穂刈が射撃場にいるという情報を知らせてくれた荒船も、行かなくていいのか、なんて促してくるあたり言わずもがなって感じだった。二人に見抜かれていることは、それはそれでまぁ恥ずかしいようなむずがゆいような感覚だけど、少なくとも本人にハッキリ悟られるよりはまだマシというもので。本人には言えない本音を、私は今一度丁寧に心の奥に丁寧にしまってから、変に思われないだろう建前を引っ張り出した。

「ちょっと摩子に勉強教えてもらってた」
「人見に?今までずっとか」
「んーと、まあ、そんなとこ」
「意味あるのか、ソレ」
「うるさいっ」

くつくつ、と穂刈が喉の奥でこらえるような笑い方をする。コケにされたことがちょっと悔しくて、私も仕返ししてやろうと射撃結果の出ている画面を覗きこんだ。どのくらい的から外れたものがあるのかと、冷やかしてやろうと思った。けれど、私はすぐに閉口する羽目になる。

「A評価……」
「なかなか冴えてた、今日は」

文句なし、と言わんばかりの成績に、反論するところがなくなってしまった。何十発と撃った内のほとんどが的中している。満足そうに自画自賛してから片付けの体勢に入る穂刈に、仕方なく私はからかうのを諦め、途中で買った缶ジュースを彼の視界に入るように置いた。穂刈は作業の手を一度ストップさせると、真意を窺うような視線を私に向ける。

「A評価とったご褒美、みたいな」
「お、気が利く」
「それと、訓練お疲れさま」
「おう」
「と、防衛任務もお疲れさま」
「……それと?」
「……お誕生日、おめでとう」

最後の最後に付け足したようなそれが、実は一番言いたかったことだとは、そんな本音は言わなかった。なのに、最後のお祝いのその一言を聞いた穂刈が、珍しく柔らかに顔をほころばせるものだから、私はなんだかくすぐったい気持ちになる。誕生日なのは私じゃなくて穂刈なのに、どうして私が嬉しくなっているんだ。

「いろいろ乗っかってるな、缶ジュース一本に」
「ありがたーく飲んでね」
「そうする」

笑いながらそんなふうに答えた穂刈の手元から、すぐにプシュッと空気の抜ける音がした。一口、二口と喉の奥へ流し込むその姿をなんとはなしに眺めていると、「そういや」と穂刈が思い出したように私を振り返る。

「よく知ってたな、俺の誕生日」
「倫ちゃんからたまたま聞いたの」
「ああ、加賀美か」
「今日が誕生日なのに任務だなんてかわいそうだよねって」
「ま、仕方ないだろ」

穂刈がそう言うように、ボーダー隊員になった以上、誕生日や他のどんな記念日も、仕事には持ち込めない私情だ。とりわけ私たち十八歳以上になると、仕事によっては日付を跨ぐ時もあるから、誕生日のその瞬間をトリオン兵を排除しながら迎える、なんて同情したくなるような状況だって起こりうる。それは仕方ない。けれど避けて通れない防衛任務と違って、訓練室で自主的にこんな時間までイーグレットを構えるそれは自分の好きな時に向き合うことができる。だからなにも誕生日の日にわざわざ居残って特訓しなくてもいいのに、と私は思ってしまう。

「ねえ、任務はまだしもなんで自主練してるの」
「マジで見回りだけで終わったから、今日は」
「平和でいいことじゃん」
「まあな。でも何か撃ち足りなかった」

腕が鈍りそうだと、スナイパーらしい台詞が聞こえくる。銃器を使った戦い方にはあまり詳しくないけれど、一度体で覚えてしまえばとりあえずのところはなんとかなるアタッカーのような性質とはまた違っているらしい。地道にコツコツ積み重ねていくような、狙撃ってそういうものなのかな、と私が考えていると、「一緒だろ、お前の頭と」とまた小馬鹿にされた。この間の模試で私より成績が良かったのをまだ引っ張り出してくるのだ。成績優秀な荒船みたいな人たちに比べれば私も穂刈もどんぐりの背比べもいいところなのだけど、数字は正直なだけに何も言い返せない。せいぜい私が言えるのは、勉強とは全然関係のないところで突っかかるしかなかった。

「せっかくの誕生日なのにさ、狙撃練習以外にやることないの?」
「勉強は間に合ってるからな、と違って」
「あっそう!勉強できても祝ってくれる彼女の一人もいないなんて寂しいけどね!?」

そんなことを言おうものなら、彼氏の一人もいないうえに勉強も足りてないお前はどうなんだって言われかねないけれど、この際自分のことは棚に上げておく。
穂刈と私は、通っている学校が違う。もしかしたら、私が知らないだけで、学校で付き合っている女の子がいるのかもしれない。けど私の記憶する限りでは、そんな女の子が話題に上がったことは一度だってなかった。というかそんなことがあったら、私は今こんなふうにのんきにお誕生日おめでとうだとか言えてない。誰が誰に告白されていたとか、付き合っているらしいとか、ボーダー内でそんな話が耳に飛び込んでくることはよくあるけれど、そこに穂刈の名前があったことは、少なくとも、ここ最近はない。もっと言うと、私と穂刈の間にも、そういう雰囲気が生まれたこともなくて、だからこそ叩ける軽口だったのだけど。

「……ま、いいんじゃないか。お前が祝ってくれるんだし」

すぐになにかしら反論が返ってくると思っていた。模試の成績をからかうみたいに、お前こそひとり身のくせに、とかなんとか言ってくるんじゃないかって。なのに、少しの間、穂刈は私を見つめて黙っていて、それからぽつりと、こんな言葉を私に告げた。独り言のようにでもなく、そっぽ向いて呟いたのでもなく、私を目を見ていた。その表情はいつも通りで、本気なんだかふざけているんだか、一見したところはわからない。けれど穂刈の喜怒哀楽は、もっと別のところからでも伝わってくる。言葉とか、態度とか、喋り方でわかってしまう。あの一言を、ちょっと嬉しそうに言っただなんて、どうして私は気づいてしまったんだろう。
なにが、いいんじゃないか、だ。なにがいいのかさっぱりだ。私はプレゼントだってなんだって用意もしていないし、日付が変わった瞬間にお祝いしたわけでもない。もうあと数時間もすれば誕生日だって終わってしまうくらいの遅い時間に、すぐそこの自販機で買った安い缶ジュースと、ただ一言だけ、おめでとうと言っただけなのに、それでいいなんて。全然良くない。誕生日なのに。穂刈の誕生日なのに、私が嬉しくなってしまうのは、やっぱりおかしい。

幸せとは君が決めるもの

2015,6,17
Happy Birthday Hokari!
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