※少しだけ未来の設定




「ご、ごめんなさいっ!!」

それはとても必死な声だった。とてつもなく申し訳ない気持ちがこもっていたので、私はあっさりと「別にいいよ」と笑って流せた。たとえ靴下やローファーが丸ごと水浸しになってしまっていたとしても。

午前の練習を終えた私は、制服に着替え終えて他の仲間が支度し終えるのを待っていた。部室内でかなりの制汗剤を使ったとはいえ、外に出れば汗がじんわりにじみ出る。この手足にまとわりつく熱気を振り払えないところが、夏が近いんだなぁと思わせる。制汗剤ではどうしようもできない掌を洗い流そうと、近くの水道場へ行くと、どこかの部活のマネさんが、一人ジャグ洗いに奮闘していた。大変そうだなぁ、とそれを横目に蛇口を捻ったときである。冒頭の謝罪が私の耳に飛び込んできた。少し手が滑ってしまったのか、彼女の持っていたジャグがひっくり返って地面へ落ちていったのだ。どうやら中に溜めた水を流し出そうと本体をひっくり返そうとしたらしい。運悪く彼女の手から離れたジャグからバシャッと水が跳ねて、私の足元───コンクリートの地面はもちろんのこと、靴下や革靴をも濡らしていた。さっきまでは熱気すら取り込んでいた紺の靴下が、今や風が通ると冷たく感じる。履き古したローファーも、台風のなか歩き回ったみたいにびしょびしょになった。

「あの、ほんとに!ほんとに、す、すみません!」
「あ、大丈夫。うん、これ水でしょ」

乾かせばなんとかなるから、と前向きになれたのは、これがスポーツドリンクではなかったからである。とりあえず靴とソックスを脱いで、濡れた膝下を運良く持っていたスポーツタオルで拭いた。しかしこのままここに居ると、このマネージャーさんが永遠に謝り続けそうな雰囲気だったので、何度も大丈夫、を重ねながら私は水道場を後にした。
ローファーはある程度濡れていてもいいとして、靴下まで濡れたまま帰るのは気持ち悪い。かといって裸足で帰るのも拷問である。どこか日に当たる場所で乾かしていこう。幸い、太陽が一番高くに上る時間はこれからやってくる。裸足のままローファーをつっかけ、部室棟の影になっている水道場からしばらく歩いていくと日当たりが出来て眩しくなった。そこは、バレー部専用の体育館の入口前だった。丁度いい、と思ったのは、今日は確か男子の練習は休みで、入口でローファーと靴下を転がしておいても誰の邪魔にもならないし、体育館には来客用のスリッパが常備されているからだ。
十分かその位置いておけば、帰るのに支障ないくらいには乾くだろう。入口近くに放置されていたベンチを日に当たる位置まで連れ出し、そこへ靴下を、その下に靴を転がす。それから、古いロッカーに常備されていたスリッパを引っ張り出した。甲の部分に金色で印字された「私立青葉城西高校」の文字がきらりと光る。ブカブカで、歩き回るには不馴れなそれを足に嵌めていると、ガラリ、と扉の開く音がした。私は思わず振り返る。

「あれ、ちゃん」
「お、お、」
「久しぶりだね、元気にしてた〜?」
「及川せんぱ、」

そこから人が出てきたことにすら驚きを隠せないのに、あろうことか現れたのはひとつ上の及川先輩だった。いろんな意味で跳ねる心臓を押さえつけて、私は「お、お久しぶりです」と挨拶を返す。
及川先輩は、今年の春に青葉城西高校を卒業していた。




うちの高校の男子バレー部は、前から強いチームだと有名だったけれど、及川先輩や岩泉先輩の代になって、その強さにますます磨きがかかったと言われるようになった。それまで宮城の枠を出ることが叶わなかったけれど、もしかしたら、と期待が大きくなっているのは、ただの女子バレー部の一人である私でもわかった。その期待の高まりは、ほんの一年前のことである。大きな期待を背負っても逞しいままだったその背中を追い続けていたのも、一年前のこと。

「なに、最近の女子高生は生足が流行ってるの?羨ましいね〜」
「違います、ちょっと濡れちゃったんで、靴下乾かしてるだけです」
「ごちそうさまー」
「変な言い方しないでくださいっ」

ケラケラと笑う及川さんは、何故か懐かしの青城のジャージを身に纏い、片手にバレーボールを持っていた。まるで去年のように、練習の合間に雑談しているような彼がそこにいるのに、それがどうにも違和感である。高校生には、同じ季節は四回も来ないことは私にもわかっていた。彼が今ここにいるのが不自然であるように、私も来年にはこの校舎にはいないのである。

「ねね、ちゃん今暇だよね?」
「ええと、はい」
「じゃーちょっと付き合って!」

及川先輩は、ベンチに座っていた私をぐいっと引っ張りあげて、体育館へと連れ出した。聞けば、ここで花巻先輩や松川先輩たちと待ち合わせしているらしい。一番乗りしてしまい、手持ち無沙汰なところで、いい暇潰しの相手となる私を見つけたようだ。

「やっぱり一人でやるより二人だよねー」
「あの、私練習終わりなんで、体力ありませんよ」

ぐいんぐいん腕を回しているので、まさかあの強烈なサーブでも繰り出すつもりなんだろうか、と冷や汗が流れる。そんなもの取れません、と念のために釘を指すと、「大丈夫大丈夫!」とどこか楽観的な言葉が返ってくる。何が大丈夫なのか全くわからないから怖い。

「はい、ちゃんそっちにいてね」

何年も経験があると、そこにネットが張られていなくても、なんとなくコートが浮かび上がってくる。私の向かいに位置する及川先輩は、間違いなくサーブラインに立っていた。打つ気満々である。
でも、それを見て少しワクワクしてしまうのは何故だろう。普段は味わえない男子のボールを受けられるからだろうか。それとも、二度と見ることはないと思っていた先輩のプレーを、再び目にすることができるからだろうか。
繰り出されたサーブは、かなり緩い、アップ向けのようなボールだった。加えてしっかりと私の目の前に落としてくれるのだから、相変わらずすごいコントロールだなぁと思う。私が両腕で受け止める頃には、及川先輩は見えないネット際まで上ってきていた。ここからは、軽いパスワークにするらしい。

「もう予選、始まってるんだよね」
「はい、先々週からです」
「わたっち達、どう?」
「めちゃくちゃ頑張ってますよ。すごく遅くまで練習してるし」
「そっかぁ」

トン、トン、と変わらないテンポでボールが繰り返し運ばれる。思えばこうして及川先輩と二人でバレーをするなんて初めてのことなのに、ほとんど力みがない自分に驚いた。練習終わりで多少疲れているせいだろうか。目の前にいるのは、かつて憧れた人なのに、不思議な気分だった。

「応援、行かないんですか?」

少し高めに持ち上げて余裕を生んでから、そう尋ねる。及川先輩は、卒業してからも何度か後輩の練習を見に来てくれているらしい、とはチームメイトから聞いた話だ。そろそろトーナメント戦も中盤に差し掛かる頃だし、当然顔を出すものかと思ったのだが、及川先輩は困ったように笑った。

「んー……迷ってるんだよね。矢巾とかさ、俺が見てるとすぐ緊張するから」
「あー……確かにしそうですね」

どうしようね、と独り言なのかどうなのか判別し難い声が聞こえた。私が答えあぐねていると、再び及川先輩の声がボールと共に降ってくる。

「女子は?順調?」
「ぼちぼちです。けど今年も、どうせ男子の応援に合流しますよ」
「弱気だなぁ」
「現実見えてるタイプなんです」

男子のチームが堅実に毎年県ベスト4に食い込む強豪であるのに対して、私たち女子の方はいいとこ三回戦止まりのレベルだ。

「でも頑張れるとこまで頑張りますよ」
ちゃんてさ、冷静に見えて実は熱いよね。俺、そういう子好きだよ」
「き、急になんですか。何も出ませんよ」
「お!動揺してる、若いねー」

ドキッとしたせいでボールの軌道がずれた。目に見えて横に飛んでいってしまったそれを、及川先輩が笑いながら追いかけた。片手で強引にこちらまで運び直しておきながら、「今のラインギリアウトね!」と貸しをひとつ私に植え付ける。なら落としてほしかった、とは言えないので、大きく緩やかなボールを返すことにする。

「若いねって……いっこしか違いません!」
「あはは、そうだったね?」

その一つが、とてつもなく大きいというのを私はよく知っている。だから少しムキになってしまう。
何度も願ったことだった。私があと少し早く生まれて、先輩と同じ学年にいられたら、と。そうしたらもっと近くで先輩のバレーを見れたし、それ以外でも仲良くなれて、あわよくば、なんて無い物ねだりをした。
あの熱は忘れないまま、私の中にある。けれどもう思い出になっているのも事実で。だからこそこうして気ままにボールを送れるのかもしれない。
告白しないの、と何度も友達に言われていたけれど、そんな自信はいつまで経っても私にはやってこなかった。及川先輩は、一つ年上で、バレーのレベルが物凄く高い人で、身長もスタイルも良くて、格好良くて。でも、笑ったところとか、少し跳ねたような後ろ髪が可愛いと思ったこともあった。コートの中で活躍する先輩はいつになく真剣で言葉が出なくて、廊下ですれ違ったときは着崩した制服が様になっていてちょっと見惚れた。絶対に手が届きそうにないと思っていた人が、去年の夏、上手くいかなくて悩んでいた私に手を差し伸べてくれたことがあった。あの靴下を乾かしていたベンチで、人ひとり分の間を開けて並んで座って、私にアドバイスをくれた。今思えば、あの時が過去最高に及川先輩と距離が縮まった瞬間で、一番に「好き」が募った瞬間だった。それを大事にしまっておくと決めたのは、先輩が卒業する時。最後のチャンスなのに、と女バレの仲間が不満そうにしていたっけ。言い逃げとかそういうのを考えなかったわけじゃなったけど、やっぱり最後まで、私には足りないままだったのだ。私を見てください、と伝える勇気が、あの時は。

それが、どうしてだろう。今なら言える気がした。夢中になっていたあの夏を越えて、気持ちの整理がついた今、ほどけた糸をかき集めるように心に集う。

「及川先輩、」
「ん?」
「今度、男子の試合のついでとか、で良いので」

新しい恋で塗り替えたわけでもないけれど、気持ちがくすぶり続けているわけでもない。それでも私のなかで特別な人なのだと、今改めて感じさせられた。私の恋の思い出の一頁で、いつまでも美化されたままの彼でいそうな気がした。
見えないネットの向こう、私の立ち入ることのできない世界に、及川先輩はいる。私は、まだ少し眩しいその存在に、女子の試合も見に来てくれませんか、と声をかけた。

Beautiful Enough

20th,January,2016