市井の喧騒が消えてしまうほどの静かな森の奥まで馬を走らせてきたはいいが、これから先のことを思うとため息をつかずにはいられない。いつもなら癒しのひとつにでもなる小鳥のさえずりも、風が木々の合間を駆け抜ける爽やかな音も、今は少しばかりの罪悪感を思い起こさせた。
 悪いことをした自覚はある。けれど、どっちにしろ結果は同じだろうと達観している自分もいる。今までだって散々破談になってきた縁組みだ。今日の相手だって、顔も名前も聞いていないけれど、どうせ私と言葉を交わせば、興味本意で私に縁談を申し出てきたことを後悔するに違いない。
 結果なんて目に見えている。だからといって、顔を合わせる前から嫌気がさして逃げてきた私の行動が評価されることも理解されることもないのだろう。また父から面倒なお小言をたっぷり浴びせられることになるのは明白だ。嫌になる。
 はぁ、とこぼれたなげやりな気持ちが、風に乗って何処かへ行こうとしていた矢先、さくさくと地を踏みしめる音が聞こえた。よくよく耳を澄ませば、それは迷わず私の元へと近づいてくる。なによ。もう使用人の誰かが私を連れ戻しにきたの、と身構えたその時、うっそうと生い茂る木々の合間から姿を現したのは、私の予想の斜め上を行く相手だった。
「やはりな、ここに居たか」
 私の姿を見つけるや否や、自分の見立てに満足したように笑っている。その男を、私はよく知っていた。知ってはいたが、思えば久しく顔を合わせていない男で。
「……ん?なんだ、少し見ない内に俺の顔を忘れたか」
 驚いて、咄嗟に声を出せない私へとまた一歩ずつ近づいてくる。折れた木の幹に腰を下ろしていた私の傍まで歩いてくると、覗き込むように僅かに体を屈めて、「やれやれ、薄情な幼馴染みを持ったものだ」と態とらしく私の目の前で嘆くような振りをした。
 そのやけに芝居がかったような口調、いつだって不敵に微笑む口許。宮廷へと出仕する前と変わらない、私のよく知る人のままだった。そう思えたならばこそ、ぽろりとその名がこぼれ落ちる。
「……ナルサス」
「はは、覚えているじゃないか」
 忘れるわけがない、忘れられなかった──などとは口が裂けても言えっこない。ただ、忘れられたら良かったのに、と思う気持ちは、口にしたところで本当の意味で伝わることもなく、きっと嫌味の一つになるだけだろうと確信めいた何かがあった。だってそれが私達という関係だ。だから迷わず口にした。
「本当は忘れたかったわ」
「聞き捨てならんな」
 器用に片眉を吊り上げ、探るような瞳が私に向く。意図は違えど言葉の表面は嘘ではない、本当の気持ちだったので、私は恐れることなくその目を見つめ返した。忘れられたら良かった。幼心にこの人に恋をして、憧れたままの気持ちなんて早い内に消してしまえていたら、今まで受けた数多の縁談のなかで、一つくらい私が幸せになれる道があったかもしれないのだ。
「さて、俺が一体何をした」
「全部。全部全部、あなたのせいよ、ナルサス」
 いーっ、と歯を出して怒ってやる。解らないままに少しは悩めばいい、と思ったのに、ナルサスはにやりと笑って。
「見合いが上手くいかないのを俺のせいにする気か?」
「なっ」
 どうしてそれを、と慌てた私の心情など露知らず、ナルサスは面白い話題を捕まえた時の笑顔そのもので私の隣に腰掛けてきた。
「寄ってくる男を片っ端から口で言い負かし続け、御父君を大層困らせているそうじゃないか」
「私が言い負かしているんじゃないわ。軟弱な男が多いのよ。ちょっと本当のことを言うとすぐへこたれるんだから」
「お前は男を立てるということを知らんからなぁ」
 諌めるふうでもなく、ナルサスは軽やかに言った。
「私だってそれくらいできる!ただ立てる価値のある男を選んでるだけ」
「はて、今日は選ぶも何も、顔を合わせる前に逃げ出したと聞いたが」
「悉く縁談を反故にしてきた娘を面白がって申し込んできただけの男なんて会うもんですか」
「やれやれ、とんだじゃじゃ馬に育ったものだ」
「……誰かさんのせいでね」
「成程?そこで俺が出てくるわけか」
 そこは普通ならば「どういうことか」と、覚えのないはずの責任転嫁に反論する場面であるのに、ナルサスは、ふむ、と満足そうに頷いただけだった。その察しの良さは憎いくらいに相も変わらず、けれど、それは長らく感じていなかった心地よさでもあった。
 一を語れば十、いや百を悟ってしまう幼馴染。こんな男と幼少期に親しく付き合っていたせいで、私は周りの同じ頃の女より、少し頭が回り、弁の立ちすぎる可愛いげのない女に成長してしまった。幼い頃に養ってしまった感覚というのはそうそう治せるものではなくて、今に至るまで──主に嫁ぎ先を決める場において──私を、父を、苦しめ続けている。私としては少し軽口を言ったくらいのことが、相手の男はまるで刃物で脅されたような情けない反応をするのだから、もう手に負えない。いっそのこと黙ってニコニコと従順な女を演じていれば万事解決するのでは、と提案されたこともあるが、それならそれで、結婚相手には私ではなくそういう人形を選べば良いのだ。と、反論したら、母親代わりの使用人に「そういう話ではないのです!」とものすごい剣幕で怒られたこともあったっけ。
 それでも、私が私の性格を根本的にどうこうしようと思わなかったのは、打てば響くようなナルサスとの言葉遊びが楽しかった記憶が根底に、かつ最前面にあるからだった。
 今、あの頃の延長線の上に生きている私を、私は変えたくなかった。あの頃、恐らく友人としては私を好いていてくれたであろうナルサスと、いつかまた再会したときに、変わったと思われたくなかった。本当のことを言うことに尻込みをして、お世辞や方便を使って世俗に流れてしまうような、そんな私を見たら、きっとナルサスはつまらないと呆れるに違いないと思った。
 きっと子供の頃は大して恋心の分別など持たないままに、ナルサスと笑って過ごしてばかりいたはずだった。それが時が経って、彼が彼の父君の仕事を手伝うようになって、小さなすれ違いに胸の痛みを覚えるようになった。それから程なくして、功績を認められたナルサスが王都へ出仕することになったとき、離れ離れになる事実にぽっかりと心に穴が開いたような心地になった。あの時、もうわからないとは言えなくなっていた。はっきり誰を好いているか、私の頭は自覚していた。
 そんな私の気持ちなど知らないで、ナルサスはそれ以来ずっと王都で暮らしていた。時折寄越してくる文に私が何れ程胸を踊らせていたかなど知る由もないのだろう。「無茶苦茶な責任を押し付けられたものだな」なんて言って肩を竦めながら、隣で呑気に座っているナルサスを、私はこっそり観察した。
 最後に会ったときより髪が幾分伸びただろうか。木洩れ日を受けて輝くその美しさには、女の私も嫉妬したくなる。今日もまた、縁談だからと使用人たちに朝から時間をかけて化粧を施され、普段は着ないような高価な衣服を纏わされた私でさえも、足元にも及ばない気がしてくる。そういえば、ナルサスもナルサスで、どこか余所行きのような着飾った格好をしている、と遅まきながらその時気がついた。よもや王都ではこんな飾り気たっぷりの服装が当たり前なんだろうか、と思わずじっと見つめてしまったせいか、私の視線を目敏くも悟ったナルサスが、「気になるか?」と勿体ぶって裾を持ち上げた。
「実はな、俺も今日はお前と同じ目的で里帰りしたんだが」
「え、それって──」
 同じ目的、と言われ、今日という日を一番に敬遠していた私がピンとこないはずがない。
「ナルサスにも縁談……?」
「うむ、旧い知り合いから話を貰ってな」
 今現在は宮廷書記官として務めるナルサスであるが、その出自は領主貴族、良くも悪くも引く手数多の殿方である。きっと王都でもそうだったのだろうことは想像に難くなく、あまり考えたくはないなと思っていたが。
 まさか久しぶりに姿を見せたかと思えば、理由が縁談だからなんて──ガツンと何かで頭を殴られたような衝撃だった。相手はどこの令嬢なのかとか、もう終えた後なのかとか、そうなら果たして出来はどうだったのかとか、問いたいことはいくつも浮かんできたけれど、すぐに聞くのが怖いような心地になって、結果、欠片も声が出せなかった。けれど、私の反応をただ単に驚きで言葉を失っているだけだと思ったのか、ナルサスは話し続けた。
「しかしこれが面白いことにだ、時間になっても相手は現れないし、何事かと尋ねれば、娘は見合いを嫌がって逃げ出したという始末でな」
「…………」
「逃げ込みそうな場所に当たりをつけて探し出したはいいが、そいつは頑なに見合いなんてするものかと意固地を張っている」
『やはりな、ここに居たか』
 数分前、そう言って現れたナルサスが、誰を探していたかなんて、聞くだけ無駄なような気がした。ただ合致しない情報が、私の頭の中を混乱させている。今日の縁談について、使用人たちがこっそり話しているのを聞いてしまったことがある。今日の相手は、私の父が、娘の縁談の出来の悪さにどうしたものかと嘆いていた声を拾って、ならば自分に会わせてくれないかと名乗りを挙げた物好きの殿方らしい──そんな風に噂されていたからこそ、私は、面白半分で首を突っ込んできた男との見合いだなんて真っ平御免だと逃げてきたのだ。
 でも、先程のナルサスの口振りは、どこかからか縁談を持ち掛けられた、そんなようなものではなかったか。どうにも腑に落ちないその点をナルサスにぶつけてみると。
「左様。お前の御父上から『どこかに娘を貰い受けてくれる寛大な御仁はいないものか』と悩み話を貰った」
 物は言い様。いけしゃあしゃあとナルサスは盤上をひっくり返した。
 けれど、私にはそこに憤慨する余裕なんてなかった。ただただ、なんてことを相談したのよ、と父の言動に呆然とした。しかもよりにもよってナルサスに。散々通わせていた文にだって、私は一度も縁談や結婚のことを書いたことはないのに、さっきはなぜ知っているんだろうと不思議に思ったが、あれは父上から伝わってしまっていたのか。私は恥ずかしさで頭を抱えたくなった。
「いざ対面して驚かせる算段が少々狂ったが、いやまぁ、これはこれでお前の面白い顔が見れたな」
「ああそう、ナルサスも私を笑いに来たってわけね……」
 見合いだなんだと言いつつ、要は私をからかいに一計講じたということなのだろう。父から私の近況を聞き、つくづく男に縁がない私を見て楽しんでいるのだ。そう思うと、無性につまらなくなったのと同時に、なんだか悔しくもあった。未だ笑みを絶やさない幼馴染をこれ以上見たくなくなって、私はふいとそっぽを向いた。
 けれどナルサスは、そんな私の態度を気にする様子もなく、まるで教え子を諭すような声色で、私の背に話し掛け続けた。
「今日のお前はどうも早計のようだ」
「なによ、何が間違ってるっていうの」
「俺は今日、見合いの為に来たのだと言った」
「だから、それは私をからかおうって魂胆で、」
 来たんでしょ、と続けようとした。振り返って、面と向かってもうこれ以上冷やかされるのは御免だとハッキリ言ってやろうと思ったのに、見返した先のナルサスは、周りの空気こそ柔らかいままなのに、どこか真剣さを帯びた視線を私に寄越していた。だから私は、思わず言葉を詰まらせた。
「あの時、何か良い縁談はないだろうかと相談をされた時、俺はお前の父君にこう答えた──叶うならば、私にその縁を頂けないか、と」
 なんでもないような顔をしてそう語りながら、するり、とナルサスは私の髪を梳いた。それから、ふわり、と一房すくった髪の先に、静かに唇を寄せる。神経のひとつも通わぬはずのその一筋に、まるで背筋をくすぐられたようなこそばゆい感覚が私を襲った。
「全く、寝耳に水とはこのことだ。王都へいらした父君に偶然会わなければ、俺はお前が幾人もの男に言い寄られ、それを良き頃合いと捉えた父君がお前をどこの馬の骨とも知れぬ男に嫁がせようと考えているなど、露ほど知らなんだ」
 近況を記した手紙に欠片でも書いてくれていたら、と、ナルサスが恨みがましい目をこちらに向けるので、私は居心地悪くなってそっと視線を反らした。
「まぁ、近寄る輩をお前自身が蹴散らしていると聞いて一心地着いたものだが」
 一瞬、誉められているのか貶されているのか、なんとも言えぬ物言いに真剣さを失いかけた雰囲気も、続くナルサスの言葉で私は再び、心の内に直接触れられているような感覚に引き戻される。
「これ以上、お前を誰からも手が届くようなところに置いておくのはもうやめだ」
 そう言って、私を射抜いたナルサスの視線は、私が知っているようで知らない不思議な鋭さを持っていた。
 ああ、変わったのは、何も髪の長さだけではなかった。会わない年月を経て、思い出の幼馴染は底知れぬ魅惑を纏った男へと変貌していた。
 そっと私の手を取って、ナルサスはまるでそこから何か想いを伝えようとするかのように指先を慈しむ。触れたそこからじわりと広がっていく温もりは、今度こそ幻ではない。熱いような、暖かいような微熱が、指先からじわり、じわりと私の心まで侵食していく。
「これからは、俺の傍にいてくれ」
 ちょっと擦れた私は、ひねくれた心で思う。私の傍を離れたあなたが、私を残して王都へ行ってしまったあなたが、それを言うのね、なんて。でも口にするほど野暮な女ではないから、そんな文句はそっと心に秘めておいた。代わりに、クスッと笑い声が漏れてしまったけれど。「……笑うところか?」と少しばつが悪そうに照れたナルサスの愛しさを、私は、さて一体なんと言い表そう。

待ち焦がれ、待ちぼうけ

19th,January,2017