さん、もしかして、髪型変えた?」

遅刻ではなかったものの、時間ギリギリに学校に到着したせいで掲示板の前には数えるほどの人しかいなかった。お陰で新しい自分のクラスを探すのに苦労はしなかったのだけど、逆にクラス表を眺めるのに夢中になってしまい、傍まで来ていた新しいクラスメイトの存在に全く気付かなかったのである。

「わっ!!」
「あぁ、ごめん。驚かせたか」
「えと……森山、くん?」

振り向いたその先にいた森山くんは、にこりと私の言葉に頷いて今年から同じ組になったということを教えてくれた。去年クラスメイトだった小堀くんと同じバスケ部の森山くんは、よく私の教室へと顔を出していたこともあり、名前と顔が一致する程度には、私は彼のことを知っている。それでもまともに会話したのは今日が初めてのことだった。その一番初めの言葉がなぜか私の髪型についてだということは、勿論腑に落ちない事実である。確かに春休みのうちにパーマをかけて、ストレート時代とはおさらばした私だけど、どうしてその変化に気付いたんだろう、となぜかどきりとして咄嗟にくるんと丸まった毛先を摘まんでいた。

「パーマかけたんでしょ?」

私の指先に気付いたらしい森山くんが、真似るように指をくるくると回転させながらそう言ったので、イエスと答える代わりに首を縦に振った。未だ私の中にはいろいろと整理がつかないことが多かったのだ。私の髪型の変化に気付いたこともそうだけど、毎日のように朝練があるバスケ部である彼が、遅刻すれすれの時間にどうしてここにいるんだろうとか、そもそも、私の名前よく知ってたなぁとか。そんな私の疑問もどこへやら、森山くんはニコリと新しい季節に相応しく微笑むと、「似合ってるね。可愛い」と私に世辞を投げた。高校三年生になったばかりでまだ17歳だった私にとってそれがキラーワードだったのは言うまでもない。要するに、慣れない褒め言葉に顔を赤くしてしまったのである。



***



新しいクラスにも幾分慣れてジメジメした梅雨の季節を迎えた頃、またひとつ、私のクラスに新しい噂が流れ込んできた。今度は一年生の女の子相手に口説いたという噂である。誰がって、もちろん森山由孝というちゃらちゃらした男が、である。

「森山も飽きないよねー」

ズズっとパックジュースをすすりながら友人が口にした人物の席を眺めた。幸か不幸か彼はこの間の席替えで隣になっていた。嬉しいの半分、イマイチなの半分。自分でもどっちに気持ちが傾いているのかわからない。私の視線に気づいたらしい友人が、「あれ、まだ好きなの?」とぶっきらぼうに問うてきた。

「私好きなんて言ってないよ」
「うそおっしゃい、ちょっと話しかけられるだけで真っ赤になってた初心はどこの誰よ」
「……それいつの話してんの!もう忘れてってば!」

始業式のあの日、クラス分けの掲示板の前ではまだ森山由孝という人のことをあまり詳しく知らなかったので、純粋に、可愛いなんて言われてしまったら赤面してしまうのは仕方ないと思う。そんなの言われ慣れている訳がないんだから。そんな私が彼のことを意識してしまうのも仕方なかった。友人の言う通り、四月から少しの間は森山と話すのに苦心した。ちょっとドキドキしてたり。真っ赤にはなってなかったはずだけど。

「森山はやめた方がいいって、あんな軽い男は」
「だから別に───」
「何々、誰が軽い男だってー?」

不意に聞こえてきた慣れた声色にドキッとしたのは、背後から声を掛けられたせい。そう、危うくお弁当の包みをぎゅっと固く閉めてしまったのも、そのせい。他になんにもない。なのに目の前の友人は目敏く私の行動に顔をにやつかせている。だから違うってば!腹いせに隣の席についた男を軽く睨みながら「あんたのこと」と言ってやった。

「どうした、そんな怖い顔して」
「森山、今度は一年生口説いたんだってぇ?噂になってるよー」
「ああ、そのこと」

森山は、だからどうしたと言わんばかりに、噂について言及されても顔色ひとつ変えることなく、手元の鞄を漁り始めた。女の子一人たぶらかしておいてなにその態度。腑に落ちない様子をちらりと見ていると、不意に森山が鞄から顔を上げて私を見た。バッチリと目が合う。でも今度はドキッとしたりなんかしない。

、次ってなんだっけ」
「リーディング、ついでに小テスト」
「おお、サンキュー」

四月の出会ったあの日以来、森山が私に向かって「可愛い」だのなんだの、甘言を口にすることはなかった。代わりに私のもとへ舞い込んできた、森山由孝という浮わついた男の素行。ああ、誰にでもそういうこと言う奴なんだと気付いて、四月のアレも気まぐれに私に声をかけただけなんだと、あの時は理解できなかった彼の言動を消化した。今じゃ「森山くん」なんて呼び方だってしないし、「さん」とも呼ばれない。交わす会話と言えばつまらない授業の愚痴とか、食堂の新しいメニューが美味しいとか、そんなくだらないことばっかり。だけど、嫌でも耳に入ってくる森山の軽々しい言動の数々に、少なからず癪に障るのはどうしてか、わからない。湿気のせいかまた一段とウェーブのかかった髪の毛を無意識に触りながら考えた。だいぶ伸びた自分の黒髪は、あの日以来全くと言っていいほど手を付けていないまま。カットも、パーマの掛け直しもしてない。でもまだ変えようという気にはなれなかった。



****



晴れやかなのは天気だけではなくこの教室みんなが同じ気持ちだった。チャイムと同時に騒がしくなるクラスメイトに担当の先生が苦笑いを呈しながら答案を回収し始める。やっと長らくのテスト地獄から解放された私たちは受験生という自覚は持っていても、今日だけは息抜き、と寄り道のプランニングに花を咲かせ始めた。私も、暑いしアイス食べに行こっか、と提案する友人に頷きながら、試験の為に髪をまとめていたシュシュを外す。

「あれ、結構長いんだねー」

手櫛を入れる私に気付いた友人が、いつから伸ばしてるんだっけ、と首を傾げたので、「去年の秋か、冬くらい…だったかな」と鋏を入れた記憶を洗った。量が多いわけではないけれど、さすがにここまで伸びてくるとかなり重い。しかも迎える季節は夏ときた。

「でももう切ろうかなって思ってるよ」
「おっイメチェン?誰へのアピール?」
「そんなんじゃないです。夏だからです」

相手なんかいません、とにやついた顔を浮かべる友人を一蹴したものの、イメチェン、の言葉に少しだけ胸がちくりとする。さすがに、ばっさりとショートにしてしまえば、だれの目から見ても明らかなので気づかれないことはないと思う。でもあの時の言葉はそうじゃない。ストレートヘアにパーマをかけたときに気が付いたのはごくごく親しい間柄の友人だけで、クラス替えなんてしたばかりの級友に指摘されることはなかった。彼を除いて。だからほんの少しだけ特別なのだ。たとえそれが彼にとっては言い慣れた言葉のうちの一つだったにしろ、私はそうじゃなかった。
悔しいなぁと思う。
名前順に変えられた席順のせいで、今は遠くにいる森山をちらりと見ると、同じバスケ部の男子と楽しそうに会話していた。すぐそこまで迫っている夏休みの話でもしているのだろうか。それとも部活の話かな。
ありきたりな会話ばかり繰り返していたころには気付かなかった私のわだかまりも、夏を迎える頃には解決していた。誰が誰を口説いている、とか、逆に誰が誰に告白しただとか、そんな高校生の青春は、彼が関わると途端に耳に入れたくなくなる。初めはあっちこっちにフラフラする森山が嫌だと思っていたのに、そうじゃなくなっていることに気が付いた。誰に、なんてどうでもいい。可愛いだの綺麗だの言うのが嫌だった。だって私には、そんなこと。
悔しいなぁ。
だからばっさり切ってやるのだ。短くなって私の肩の荷を下ろしてもらう。春に誰かが似合うと言ってくれたこの髪型ともおさらばする。



****



首筋を触る癖が増えた。短くなった私の襟足を暑い日差しで生温くなった空気がくすぐるのが、なんだか慣れなくて、つい首元を覆いたくなるのだ。パーマの名残が少しだけ残っているせいか、ふわふわと浮ついたようにも感じる。髪の量が減ったのだから軽く感じるのも当たり前だよね。
今日で学校は終わり。そんなギリギリの日に髪を切って登校する私は、もしかすると夏休みに浮かれているようにでも見えるんだろうか、となんだかちょっと恥ずかしい。決してそんなつもりじゃないんだけどなぁ、と誰に伝えるわけでもない言い訳が頭をよぎる。夏だから切っただけ、暑いから、切っただけ。登校した私は日中、意味ありげに勘ぐる友人たちにその言葉を繰り返すのに徹した。

さん、もしかして、髪型変えた?」

部活組の友人たちを見送って一人になった私に、昇降口でそう声を掛けてきた人がいた。ちょっとだけ驚いたけれど、すぐに私の視界に割り込んできたせいか、目を大きくするだけで済んだ。なんだか、どこかで聞いたような台詞だな、と頭の片隅でひっかかりを覚える。それにしてもさん、だって。なにその白々しい言い方。

「もしかしなくても、変えました」

ていうか今日一日中同じ教室にいたんだから知ってるでしょ。わかりきったことを改めてクエスチョンマークも付けて尋ねてきた森山にこれ以上この話題に付き合う気もなくて、私は部活行かないの、と話を変えた。無意識に避けたかったのかもしれない。森山とこうして二人っきりになるのはすごく新鮮だったから、ちょっとだけ、緊張した。靴箱の扉に触れた自分の手元に視線を戻しながら、そうだ、四月以来だ、と思い出した。

「行くよ、けど、に言いたいことあって」
「……?」

ローファーを出すつもりで開けたその扉を、私はつい再び閉めてしまった。腑に落ちない言葉につい森山を振り返る。彼は相変わらず笑顔を浮かべたままで、でも心なしかどこか楽しそうだった。言いたいことなんて、今日だって散々隣の席に座っていた訳だし、言おうと思えば何時だって言えたはずなのに。

「ロングも似合うと思ったけど、短いのも可愛いね、
「───!」

不意打ちに届いた言葉に、思わず視線を反らしてしまった。あからさまな反応に自分ですごく恥ずかしくなる。あの時と同じ笑顔で、同じような台詞で、悔しいことに、私の反応もまた、同じ。ドキドキと呼応する胸元は嘘をつかない。勘弁してほしい。春にだって同じようなことを言われて、でもそれは森山にとって大したことじゃなかったのに、私のなかでは一大事になってしまった。友達にだって、森山みたいな軽い男はやめときなよ、って言われて、自分でも何だか嫌だった。たった一度くらい可愛いって誉められただけで意識してしまう自分が。目で追ってしまう彼の姿も、耳に入る彼の噂も何度も閉め出そうとした。けど出来なくて、自覚してからは好きじゃないと言い聞かせて、髪も切った。誉められたあの髪型を心のどこかで自慢に思っていた私を捨てるために、ばっさり。
なのにまた、そういうこと言うなんて。

「……な、何、どしたのいきなり」
「いきなりって……まぁ、にとっちゃそうかもしれないけど」

森山が、私から目線を外して首筋を掻く。髪を切ってから私がよくやるようになった癖。見ている私も首裏が少しくすぐったくなった。

「色々探したんだけどさ、どう頑張ってももう贔屓目にしかみれなかったから、見つかんなくてなぁ」

言われ慣れてないことを言われたばかりの私の心境では、一体何の話か、なんてそこまで頭が回らなかった。泳いだ視線がスッと私に向けられて、「でもが髪切ってきたから、俺嬉しくなっちゃって」と、ますます固まる私の思考回路をよそに、森山は変わらぬ笑顔で話し続けた。いつだって見飽きたはずの森山のその表情が、なんだか今日イチ輝いて見えた。

「やっと可愛いって言える口実ができた、って」
「か、こ、口実……?」
「我慢してたんだよこれでも。本当は毎日言いたかったけど、四月のの照れ様を見たらさ、毎日言ったら避けられちゃうかもって思って」
「……………」
「ショートカットもすごく可愛い、
「な、なに」
「どもってるのも可愛い」
「っ、」
「そうやって照れてるのもかわ───」
「無理、やめて!」

頬に熱が上る私なんてお構いなしに、森山は口許を緩めて「ほらね?」と微笑んだ。ああもう、その笑った顔、見てられない。

「全部可愛いって言ったら、、どうなっちゃうかな」


そこでひとつのファニーロマンス

4th,April,2013
title by Mermaid and Casket