忘れられない人がいる。
そんな風に言うと、なんだか美しい思い出の一ページを振り返るように聞こえるが、実際はそんな可愛いものではなかった。忘れさせてくれない、の方が正しい気がする。
「お、御幸タイムリー」
「ピンチに強いの変わんないね」
「ホント、良いとこばっかとりやがってよぉ」
「倉持いっつも霞んでたもんねぇ」
「うっせーな」
当たり前をなんとも思っていなかったあの三年間を、今でも昨日のことのように思い出せる。いっそ物覚えが悪く、思い出せなければこんなに悩むことはなかったのかもしれない。もう一端のプロ野球選手として活躍している男と、二年前までは毎日のように顔を合わせて、なんでもない話をして、笑いあうような間柄だったことなんて、夢だったと思えればよかったものを。
そんな彼のことを、私は親友の倉持と一緒に向かい合ってラーメンを食べながら画面のこちら側で呑気に応援していた。今日は、御幸のチームがシーズン最後の試合を迎えている。
「おい、のびんぞ、麺」
「あっヤバ」
「てかのびてんな、もう」
馬鹿にしたように響く倉持の笑い声は高校時代からまるで変わっていない。「うるさい、まだ大丈夫」とそれに反論する私も、制服を脱いだだけで大して成長していない。それに比べて、と私は箸を片手に画面をもう一度見る。この試合既に三打点目を奪ったヒーローがでかでかと画面に写し出されていた。
見るたびかっこよくなっているのは気のせいだろうか。
「みとれてんじゃねーよ」
「み、みとれてないよ」
「マージーで、早く食え」
「く、食うよ」
「口悪いぞ」
「誰かさんのせいでね!」
倉持と知り合ってもう五年、御幸と会わなくなって二年目の秋の終わりだった。


青道を卒業してからの進路は、御幸に限らずかなりバラけたものだった。勿論プロに行ったのは御幸一人だったけれど、大学で部活に入ってまたがっつり野球漬けの毎日を送っている人もいれば、野球を続けていない人もいた。そのまま東京に残った人もいれば、地元に戻った人もいる。それがやっぱり寂しいと思うのは、私もマネージャーながらそれほど部活に夢中になっていた証拠で、だから、今の環境は少し恵まれていると思った。
私は偶然にも倉持と同じ大学に進んだ。しかも、そこには前年に小湊先輩が入学していた。これも偶然。本当に。そして見つかってしまったが最後、どうせ暇でしょ、だったらマネージャーやりなよ、と小湊先輩によって半ば無理矢理に野球部へ入らされ、また汗臭い部員の面倒を見るはめになっている。始めは全くやる気なんてなかったのに、もう見る専門になろうと思ってたのに、何だかんだ続けているうちにやっぱり楽しくなってしまうのだから私も単純な人間だ。
世間では紅葉が見ごろ、なんて文句が聞こえてくる十一月に入り、一年で一番の目玉といっても過言ではない学園祭も終えてしまった今、学内にはひたひたと冬の足音が近づきつつあった。そろそろコートがないと朝が寒い、なんて友人たちと話をしながら学食で次の講義の時間までの退屈しのぎをしていると、見知った顔が学食へ入ってきたのを見つけた。倉持だ。スマホを弄っていたからこちらには気が付かないだろうか、なんて思っていたら、急に顔を上げた倉持と、ばっちり視線がぶつかってしまった。意図せずじっと見つめていたような見つかり方をしてしまったのが居心地悪くて、ひらひら、と誤魔化すように手を振って会釈を済ませようとした。だけど、同行していた仲間らしき人たちに少し声をかけると、倉持は私の方へと迷わずに向かってきた。なんだろう、と悩む間もなく傍へとやってきた倉持は、何も言わずに、ずいっと私の目の前にスマホの画面を差し出した。
「ん……?」
よく見ると、それは誰かとのメッセージのやりとりをしているような画面だった。口の悪さがそっくりそのまま画面上に現れているから、すぐに会話のどちらが倉持かはハッキリした。「来い」「顔を出せ」などと乱暴な言い草で誰かを誘おうとしているようだった。そんな言い方したら来る人も来なくなるんじゃ、とちょっと呆れつつ画面を辿ると、意外にも最終的に「わかった」と前向きな答えを出していた。おお、と謎の感動に包まれたのもつかの間、倉持の指先が、メッセージを送っていた相手のアイコンを、ポン、と叩いた。トーク画面上ではなぜか表示されていなかった相手の名前が、眼前にはっきりと現れた時、私はうっかり動揺して、その一瞬、息を止めてしまった。
「年末の同期の忘年会、御幸も誘った。来るって」
同期、が指すのは勿論青道野球部の面々である。卒業してからも、何だかんだ集まっているのだ。それは今のように忘年会だったりもするし、新年会だったり何でもない夏休みの平日だったりと形を変えはしていたが、名目なんてみんな気にしていなかった。特に、前園のように大学は地元に戻った人もいたので、そういう人が東京に来るのを考慮して開かれることは多かった。そしてその幹事は、いつも東京の大学に通う面々が持ち回りに受け持っていた。今回は倉持と私だ。企画の段階から、お店探しや下見に忙しくしていたので、私も中々に楽しみにしていたイベントだった。たった今、一人増えた参加者の名前を聞くまでは。
「ちょ、ちょ、ちょっと」
思わず立ち上がって、友人たちも傍に座っていたそのテーブル席から、倉持を引っ張って遠ざけた。一歩一歩と足を進めるうちに動揺が心臓に伝わっていくようだった。さほど人のいないエリアで立ち止まって、だけどどうしてか小声で問いかけてしまう。
「御幸が、来るの? 忘年会に?」
「おう。お前もぜってー来いよな」
「……バイト」
「入ってるとは言わせねえぞ、幹事さんよ」
退路を断たれ、うっと言葉に詰まる私を他所に、倉持はなんでもないような顔で続ける。
「初めて顔出すんだ、アイツの一軍昇格祝いも兼ねてんだぞ」
「……う、」
「おめでとうの一言くらい言ってやれよ」
倉持は、私が御幸と連絡を取っていないことを知っている。だってこの二年間、私は倉持に御幸のことをたくさん聞いてきた。ドラフト入りしたけどすぐには一軍になれないだとか、中々チームメイトと打ち解けられていないとか。聞いていた以上に二軍という場所が厳しいものだと、私は倉持を介して知った。知った風になって、歯がゆい思いもした。まさか二軍の試合がテレビで放映されるわけでもなく、デーゲームが多いので見に行くこともできなかった(できたとしても行けたかどうかわからないけど)。その過酷な環境から上がってきた御幸の名前が、テレビを通して電光掲示板で見えたときは本当に嬉しくて、晴れ舞台を見ようと倉持の家に集まったみんなの前で柄にもなく泣きそうになって、「泣いてんだ」「泣いてません」と小湊先輩と言い合ったこともあった。
だから、昇格祝いの一言を、と言われれば、言いたい気持ちはもちろんある。あるのだが。
「……なぁ、そんなに会うの嫌なのか」
「い、いや、嫌じゃないんだけど……なんていうか」
「なに」
「……どんな顔して会えばいいのかわかんないっていうか」
間違いなく、間違いなくこんなに意識しているのは私の方だけだ。御幸はきっとなんともかんとも思ってなどいない。私のことなんて意識の片隅にもないかもしれない。もう若手イケメン捕手としてワイドショーを騒がせつつある彼のことだ、美人な年上の女子アナお姉さんとよろしくやってるかもしれない。けど、御幸はそんな器用な人間じゃないと思っている自分もいる。野球に必死こいて食らいついてるときに、余所見できるほど余裕を持ってるタイプじゃないと私は思ってる。けど連絡取らなすぎて、会わなすぎていて、もう私の知る御幸一也じゃないのかも、と思うとその考えもゴミ箱の近くまで持っていかざるを得ない。そして捨てられないところがまた、なんとも未練がましい。
こんなに胸のなかで拗れている御幸への気持ちを、今更どう紐解いたらいいのかわからなくなっている。
「テキトーにへらへら笑ってりゃいいんじゃねえの。無駄に変なこと考えてんじゃねえよ」
「へらへらって、人をなんだと」
「昔から、御幸といたときはへらへら笑ってただろーがよ」
「……何か言い方に悪意がある、倉持」
「色気もへったくれもねー笑い方だったな、アレは」
「今のは! 確実に! 悪口!」
「文句ならいくらでも聞くぜ。忘年会が終わった後なら」
ニヤッと白い歯を見せた倉持に、思わず毒気を抜かれて、私は知らず知らずのうちに張っていた肩の力を抜いた。忘年会の後、どうなっているかなんて考えたくもない。少なくとも、今は。そんなことを百も承知言うのだから、ずる賢いったらない。
「倉持が仕組んだんだから、フォローぐらいしてよね」
「おー、覚えてたらな」
高校時代から変わらない笑い声と、どうにも心乱れる私を残して、倉持は踵を返して歩いて行ってしまった。


どんなに胃がキリキリ痛もうが、私を乗せた電車はスムーズに駅へと滑り込んでいく。今日に限ってなんの事故も起きない、不謹慎なことにそれを恨んだ。いや、ちょっと点検とか入ってくれても良かったのに。いつもは物凄く恨んでツイッターに不満をぶちまけるけど、今日はそんなことしないで寛大な心で受け入れられるのに、と口を尖らせながらホームに足をつける。年末も差し迫った日の夕方、なんて看板を掲げなくても都心はいつもこんな感じだ。あっちこっちに流されないように、目的の改札口まで歩き抜ける。そこで倉持と待ち合わせの約束だった。
「わりー、遅れた」
「ううん、別に」
「じゃ、行くか」
待ち合わせ時間から遅れること五分くらいで、倉持がやって来た。倉持はジーパンにジャンパーと極めて見慣れた格好だった。私はというと、気合いをいれるつもりで、下ろし立ての服を着てきた。この間のバイト休みにわざわざ新しいブーツも買いに行った。
「それ、お前の勝負服?」
歩きながら、倉持が私の服装を観察し始めてそう言った。
「……七割くらい」
「あんだよ、全力で勝負しにいけよ」
「あとは、気持ちの問題なの」
「めんどくせー、女って……いや、お前がか?」
からかうようにそう言ってきた倉持を、うるさい、と一蹴する。残り三割の気持ちは、この期に及んで、と言われそうだけど、まだスタンバイできてないままだ。けれど、お店に着いて、店員さんと宴会前の諸々の説明を受けたり、続々とやってくる同窓生たちとの久しぶりの再会に心躍らせたりしているうちに、それはどこへか誤魔化されていくようだった。
「えー、じゃ、全員揃ったし……まだ一人来てないやつはいるんだけど、ま、いいだろ。とりあえず、乾杯!」
どこか適当な倉持の挨拶で、二十人規模の個室はたちまち賑やかになった。ガツン、ガツンとたくましい音をたてるのはジョッキ組。コン、コンと安物のグラスらしく響かない音を立てるのは、カクテル組。あちこちで乾杯のグラスが傾けられていく。今日集まれた中で女子は私一人だけで、唯ちゃんも幸子も来れなかった。二人とは個人的につい先日お茶したばかりだから残念ではないけれど、男子大勢の中に女子一人というのはまだ慣れない。いつも仲の良い倉持は私の斜め前の席に座り、隣や後ろをちょくちょく振り返り、あっちこっちと忙しない。私は二つある出入り口のうち、店員さんがよく顔を出す出入り口の近くに座した。男性陣はお酒が進むとどうせお店への対応がおざなりになってしまうのがいつものことだったので、幹事でなくても飲み会でこの座席はほぼ私の定位置で。今日私の隣には、カクテル組の一人、ナベちゃんがやって来ていた。彼の手元にはカシスオレンジのグラス。新歓期の新入生を思い出した。
「あーあ、ノリってば、もう顔真っ赤になってる」
「ほんと弱いね、川上は。まだそんな飲んでないのに」
は強いよね。酔ったとこ見たことないよ」
「遺伝のおかげでね」
そういうナベちゃんは、と聞くと、彼はあまりお酒が強くないらしい。二杯目からはソフトドリンクにするよ、と迷いのない笑顔で告げられた。どうやら場数は踏んでいるらしい。お酒にも雰囲気にも呑まれる隙が全く見えない。さすが完璧主義者。
「何だか、いまだに信じられないなぁ」
「うん?」
「甲子園にも出た強豪チームの、僕は一度もベンチにも入ってなかったのにさ。こうしてお酒が飲める歳になって、一緒に飲んでるのが、あの時のレギュラーメンバーだなんてね」
そういえば、偶然にも今日はレギュラーや、ベンチ入りしていたメンバーが多い。いつもはその逆が多いのに、珍しい。
「私たち、ずっとスタンド組だったもんねー」
「ははっ、そうだね、ベテランだったね」
こんな風に茶化しても笑っていられるのは時間のおかげだろうか。あの時は言えなかった。そう思うと、卒業するって、そんなに悪いことばっかりじゃないなぁと思う。席の向かい側で、もう既に真っ赤になっている川上にそそのかされて、木島もジョッキを大きく煽る。それまで隣で様子を見ていた前園が、「!おかわり頼むわ!」とデカい声で言ってきたので、ハイハイ、と手を振っておいた。
「なんだか、今の方が皆と距離縮まった気がする」
「僕とみたいに?」
「うん、そう」
卒業して、皆が皆別々の進路を決めたことで、でこぼこだった立場がまっさらなスタートラインになってくれた。縛るものが何もなくなったところにお酒なんかも加わって拍車が掛かった。これまでは共通の話題ばかりだったのが、今は相手の知らない近況ばかり聞く。ずっと知っていたはずの相手なのに新鮮で、楽しい。ナベちゃんとこんなに話が合うとは思わなかったし、倉持だって、高校時代から特別仲が良いわけじゃなかった。みんな卒業してから、大学に入ってから。
まぁ、一人を除いてだけど。あの人だけは、卒業してからいろんな意味で距離が開けてしまったと思う。まだここには来ていない一人を思い浮かべ、会いたいような会いたくないようなもやもやを抱えながら、私はグラスを空にした。
「……さてと、前園のおかわり分を頼みますか」
も次、飲むでしょ?」
はい、とナベちゃんが開いてくれたドリンクメニューを覗き込む。まださっぱりしたものがいいなぁと思い浮かべながら選んでいると、ナベちゃんに「これ何杯目?」と聞かれた。「三杯目が終わったところ」と答えると「今日ペース早いね」と笑われた。そんなつもりはなかったんだけど、言われてみればそうだ。無意識に酔いたいなんて思ったりしてるのかもしれない。彼が来る前に、酔いが回って、お酒に弱い後輩みたいに可愛く寝てしまえたらどんなにいいかと思う。そこまで考えて、そんな自分に鳥肌が立った。倉持にいったら確実にドン引きである。やめやめ。どうせ簡単には酔えない性質なのだ。好きなものを好きなように飲もう。
結局、悩むのも面倒になった私は生ビールを頼むことに決め、店員さんを呼び出すボタンを押そうとしたら「あ、さっき押したよ」とナベちゃんがありがたい一言をくれた。そんな彼のグラスも、もうすぐ底が見えそうだ。
「ナベちゃん、もう飲み終えるんなら頼んじゃう?」
「ああ、うん。そうしようかな」
「次ソフドリにするんだよね」
お酒のページからひとつ、ふたつとページを捲って見せる。その中から彼が選んだのはオレンジジュースだった。ナベちゃん、オレンジ好きなのかな、さっきもカシオレ飲んでたし。そんなことを考えていると、個室の扉を少々控えめにノックする音が聞こえた。
「あれ、早い」
「団体客だし、お店の人気遣ってくれてるのかも」
「なるほど」
立ち上がりつつ、向こうのテーブルに空になったグラスは幾つだろうか、と数える。まだ何も言われていないし、とりあえず空きグラス分また生ビールを頼めばいいだろうと踏んでいた。いち、にい、と数えていると、私に気づいた倉持がこちらへ手を振る。
、俺次アレな!」
「は? あれって……生じゃなくて?」
「ちげえ!」
なんか偉そうに言ってるけど、倉持の次なんてお決まりじゃない。確かに何度も居酒屋には行ったけど、倉持はなんでも飲む。ツウカアの仲じゃないんだからわかりっこない。なのに酔ってるのかふざけてるのか、答えを言おうとしない。
「ハイボール?」
「違う!」
「じゃウーロン茶でいい?」
「おい! 惜しいけど!」
面倒くさくなって投げやりにそう答える。だって店員さん待たせてるし、と喚く倉持に背を向けたところでハッとする。惜しいって、ウーロンハイか。そういえば倉持、ウーロンハイもよく飲んでたっけ。気付いてしまったものは仕方がないので、彼には希望通りウーロンハイを頼んであげよう。向こうのテーブルには生三つ、こっちのテーブルに生二つ、ナベちゃんにはオレンジジュース。頼まれた注文を反駁しながら私は襖を開けた。
「お待たせしてすみま、せ……」
「……よっ。久しぶり、
店員さんへの謝罪として出かかっていた言葉は最後まで続かなかった。テレビや雑誌の写真でしか見なくなっていた、御幸の姿が目の前にあって、私は心臓が止まるかと思った。二年ぶりの、正確に言うと、一年と、九か月ぶりの御幸。
「……?」
ダメだ、やっぱりみとれちゃうよ、倉持。


言葉が出ない代わりに、ただ御幸の顔をじっと見つめてしまった。外の寒さに頬が少し赤くなってる。黒縁フレームの眼鏡は相変わらずなんだなぁ、とか、それが嬉しいとか思うな、わたし。
「御幸!」
彼の名前を呼んだのは、私の後ろにいたナベちゃんだった。御幸の視線が私から動いて、呼ばれてもないのに私も振り向く。ナベちゃんの声は思ったよりも大きくて、部屋の注目を一気に集めたかと思うと、あちこちで歓声が上がった。遅ぇよ、とか、待ちくたびれた、とか、手荒い歓迎の言葉が一気に御幸を包む。でも、当の本人はその場から一歩も動かない。ちらりと様子を盗み見ると、ポケットに突っ込んだ手元がもぞもぞしている。そういえば、倉持は何度か会ってるとか言っていたけど、私を含めた他の皆は殆ど二年ぶりの再会なのか。緊張している様子が、いつぞやのキャプテン就任時の姿と重なる。どこか頼りないその背中を、私は後ろに回ってぐい、と前へ押しやった。
「うおっ、」
「御幸、お前おせーぞ!」
「ホラこっちこっち!」
動いた御幸の体を、ナベちゃんや、他の皆が真ん中へ引っ張っていく。その時、奥にいた倉持と目が合った。何か言いたそうな表情をしていたけれど、後ろから今度こそやってきた店員さんに呼ばれたので、私は見なかったふりをした。
「ご注文、お伺いします」
「えーっと、生を五……じゃなくて六杯、とあとウーロンハイひとつ、それから──」
一通り頼み終えて席に戻っても、御幸や近くの人たちはまだ立ったまま、再会に騒いでいた。御幸なんかまだコートも脱いでいない。でも、揉みくちゃにされながらもその横顔は楽しそうにしている。
少し落ち着くと、また心臓の早鐘が蘇る。ほんとに御幸が来てしまった。悪いことじゃないし、会えたのは、やっぱり嬉しいんだけど、なんでもない風に話せるだろうか、とドキドキしてしまう。倉持が言うようにへらへら、できるだろうか。意識という意識を外へ放り投げて、無心になんてなれるだろうか。けれど、先程の邂逅を思い出してはすぐに首を振らざるを得なかった。無理だ。私かなり意識してる。
「お待たせしましたー」
「あっ、はい!」
早くも飲み物を運んできてくれた店員さんは、お盆ごとテーブルに置くとすぐに部屋を出ていく。オレンジジュースと生ビールの二つを手元に残し、残りのジョッキ余多を向こうのテーブルに運ぶ。すると、途中で私に気付いたらしい倉持が近くまで来てお盆を一緒に持ってくれた。
「言えよ馬鹿、めちゃくちゃ重いじゃねーか」
「うん、ありがと」
「お、ウーロンハイわかってんじゃん」
「……倉持」
「なんだ」
「へらへらできるか不安」
「……だろーな、お前もう顔赤いし」
「えっ?! ウソ!」
「嘘」
にしし、と人の悪い笑みを浮かべた倉持が、テーブルに置いたお盆から、皆に生ビールを回していく。私を片手間にしているその余裕から、からかっていたのだとわかって、また肩の力が抜けた。
「笑わなくてもいーけどよ、そんな深刻な顔すんな。ブサイク一歩手前だぞ」
「それは……ヤダ」
「御幸は、まぁ、暫くはそっち行かねえだろ。だからナベと飲んでろ」
「暫くしたら?」
「お前が来い。オイ忘れてねえよな、一軍祝い」
「わ、わーかってるよ! そこは!」
私の言葉に倉持はどうだか、と不満そうに鼻を鳴らした。正直言うと忘れてたけど、今しっかり思い出した。一言、おめでとうと伝えなくては。心の準備を、とまた言い訳しながら私は空になったお盆を引き寄せて席に戻ろうとした。ところが、その首根っこを倉持に捕まえられて動けない。何、と文句を言おうとした私に被せるように倉持が大きな声を出した。
「んじゃ改めて主役が来たんで。えー、皆グラス持てよ、持ったな。……コイツ全然顔出さねえから時間だいぶ経ってっけど、御幸の一軍昇格を祝して!」
倉持は一番近くにいる私がグラス持ってないのを知ってるくせにさくっと無視して自身のウーロンハイを掲げ、一際はっきりと乾杯、と声を張り上げた。ガチャガチャとグラスの交わる音があちこちで響く。音頭を取った本人は、離れたところにいる御幸とエアーでグラスを合わせる仕草をしていた。流石の意志疎通が少し羨ましい。というか、祝ってやれ、と口酸っぱく言って来る割には乾杯させないのか、と倉持を睨んでいると、あっさり半分以上を飲み終えた倉持が私の視線に気付いて、何を誤解したか「ほらよ」と飲みかけのウーロンハイを寄越してきた。押し付けられるように渡されて思わず手に取ってしまう、が。
「これウーロンハイ……」
「何でも飲めんだろ、お前」
「しかも飲みかけ……」
「文句言ってんな! ほら御幸見てんぞ、こっち」
「えっ、」
そこで条件反射に彼の姿を探してしまう私も私である。言われた通り、御幸が少し減った生ジョッキを片手に私と倉持の方を向いていた。すぐに目が合わなかったので、きっと倉持を見てたんだと思う。でもそのあと、御幸の視線は私に移って、少しジョッキを持ち上げる仕草をする。つられるようにグラスを持ち上げながら、私は「おめでとう」と呟いた。
「声ちっさ」
「どうせ聞こえてないからいーの」
「お前緊張しすぎ、キモいぞ」
見てらんねえ、と何故か理不尽に髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。ムカついたので、残りのウーロンハイを飲めるだけ飲んでやった。まだ焼酎の気分じゃなかったのに、と余計もやもやしたけど、少し気分が良くなったりもした。
「そんなに飲めとは言ってねえぞオイ」
「御幸はさぁ」
「あ?」
「相変わらずかっこいいね」
ようやくコートを脱いでくつろぎ始めた御幸を観察していたら、思わずそんなことをもらしていた。高そうなコートの下には品の良さそうなシャツとカーディガンを着ていて、同い年のはずなのに、ずっと年の離れた人に見える。
「……お前酔ってんの?」
「酔ってない」
そーだよな、酔ってる奴はそう言うわ、と倉持が私の手から軽くなったグラスを取り上げた。


倉持の言う通り元の席に戻って大人しくナベちゃんと談笑していたら、川上がやって来た。真っ赤な顔に加えて瞼が閉じたり開いたりしている。眠そうだ、とナベちゃんと視線を合わせて笑みをこぼした。お酒に弱い川上は、中盤まで皆と飲み合って、それからリタイアするのが定石だった。そして今日みたいな座敷タイプのお店に来ると、決まって横になりたがる。一旦休憩してまた飲みに戻るのだと本人は言っているが、彼は結局いつも最後まで寝てしまっている。今日も邪魔にならないようにと壁際にやって来た川上のために、私とナベちゃんは少し詰めてスペースを空けてあげた。
って、お姉さんみたいだよね、時々」
横になった川上に、冷えないようにと、私が膝掛けがわりにしていたストールを肩にかけてあげていた時、ナベちゃんがそんなことを言ってきた。
「そうかな」
「うん、だからノリだってこっち来るんだよ」
あっちの方がスペースあるでしょ、と言われて見ると、確かに向かいの壁際には確かに人もいなくて空いているのに対して、こっちは荷物置き場まである。
「頼りたくなっちゃうんだろうね」
お前ってたまに頼もしいよな。ナベちゃんの柔らかな言い方とは違う、もっと苦笑い混じりに言っていた、彼はそんな口調だったのをふと、思い出す。なのにそれがすごく嬉しかったのは、友達もそう多くないあの人の、頼られるカテゴリに自分がいたと知ったからだ。あの純粋な感動は、いつの間にか、友情を絡めてややこしい恋心に変わっていた。しかし、その気持ちが羽化することはなかった。卒業する最後の日まで、主将とマネージャー、同級生、友達、そんな名前の関係のままだった。思わせ振りな言葉も聞いたし、私も落とした。けれど決定的になにかが変わるような一瞬はなかった。
今、御幸を思うと、きゅっと締めつけられるような切なさだけが胸に募る。恋ってもっと、嬉しかったり悲しかったり、緊張したり、いろんな気持ちになるものじゃなかったかなと考えると、彼へのこの気持ちは、恋ではないような気がした。
ただ、御幸を想うより前に好きになった人を今思い出しても、切ないとは思わない。あんなことも有ったなと振り返る心には、切なさも苦しさも恋しさも残らない。終わった恋というのは、そういうことだと思っていた。けれどそうなると、私はまだ御幸に恋をしていることになる。
未練を残しているのは、あの時好きだと言えなかった後悔からだろうか。なら、当時の気持ちを懺悔のようにさらけ出せれば、私はそれで満足するんだろうか。きっと、とっくのとうにバレているような気もするけれど、今更ながらに「好きだったんだ」と打ち明ければこの胸のつかえもとれるのだろうか。それとも、高校時代の淡い思い出全てに蓋をして、何にもなかったように振舞って、気軽に連絡を取り合える仲になれれば気がすむのだろうか。
全部、思い出にできたら良かったのに。懐かしい思い出の一ページに埋めて、切なく思う感情が呼び起こされる前に、次のページを捲ってしまえるようになっていたら良かったのに。そうできない自分は、あの時頼もしいと言われた自分とはとても程遠いような気がしてしまう。
「……ナベちゃんの方こそ、気配り屋さんだよ」
「そうかな?」
「うん」
そうじゃなかったら、女子一人の私なんかに気遣ってずっと隣にはいてくれない。そう言うと、ナベちゃんはちょっと驚いてから、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「別に、俺がと話すの楽しいと思ってるから……」
「あ、そうやって今の彼女も口説いたんでしょー」
「そ、そういうんじゃないって!」
「なんやナベ、お前いつの間に女できたん?!」
「え、そこから?」
「私写真見たよ。めっちゃ可愛かった」
「俺にも見せんかい!」
たまたま近くを通りすぎようとしていた前園が、私の言葉の端を捕まえたかと思うと、すごい勢いで割り込んできた。その声のボリュームは、宴の中盤とは思えない元気のよさで、少人数ずつの盛り上がりにシフトしていっていた個室を再び盛り上がらせるには十分だった。前園のうるささにつられてか、ナベちゃんと私の周りにわらわらと人が集まり始める。予想以上に事が大きくなってしまって、ナベちゃんに少し申し訳なく思っていると、誰かに肩を叩かれた。倉持だった。
「ん?」
「あっち」
倉持が大雑把に顎で示す先には、御幸がいた。一人難しい顔で携帯とにらめっこしている。これは行ってこい、という意味だろうか。私が微妙な顔をしてそちらを見ていると、倉持が私の服を軽く引っ張ってくる。何かと思って、大きくなった輪の中から少し抜け出してみると、ひたり、とその手が私の頬に触れた。突然のことに声が出なかった。ひゅっ、と空気が喉を通り抜ける。
「顔が白いまんまだからわかんねーけど、結構熱いぞ」
それが羞恥でもなんでもなく、ただお酒の飲みすぎだと指摘しているのはわかった。ぺちん、と酔いを覚ますかのように軽く叩かれその手が離れていく。痛い、と文句を言うも、完全に無視されていた。
「酔ってないよ。それほど飲んでないし」
「でも酒は回ってんぞ。お前の希望通り」
倉持には、私のお酒の勢いを借りればなんとかなるかもしれないという甘い思考がしっかり読み取られていた。恐るべし、勘の冴えるチーター様である。
「おら、行ってこい。骨は拾ってやるから」
「骨って……一言おめでとうって言ってくるだけだし」
テーブルにあった私の飲みかけのグラスを、倉持が私に押し付ける。倉持は来てくれないのか、と名残惜しく見ていると、とっとと行け、と背中を叩かれた。蹴られないだけマシなのかもしれない。私は少しだけ髪の毛を手直してから、御幸の元へ歩き出した。

実に二年ぶりの同級生との再会に、柄にもなく緊張した。定期的に連絡を取り合っているのは倉持だけで、他の連中は試合に出たときに不定期にメールを寄越してくれる程度だった。中には全く音信不通になってる相手もいた。しかも、一番そうはなりたくなかった相手だ。倉持に聞いたら、今日は顔を出しているらしい。そのことを聞いたときの電話口の応答にイラッとしたのを思い出した。来るのか、と問いかけた俺に対して、「おー、連れてくけど」と返ってきた。連れてくってなんだよ。お前アイツの彼氏なのか。
同じ大学に入ったと聞いて、そのことには後々感謝するようになった。の様子を色々聞くのに便利だったからだ。けれど、同じように野球部に入ったと聞いてから何かずれ始めた。話の節々に、二人の親密さが滲み出ているような気がして、彼女の様子を聞きたいのに聞きたくなくなる。アイツ余裕で何々杯飲めるんだぜ、って倉持は楽しそうに話すけど、それは結局倉持とが二人で飲みにいったっていう事実に気付かされるだけだし、お前の一軍デビューした試合を見たとき、泣きそうになってたぜ、と報告してくれたけど、それお前自分の部屋で見たって言わなかったか。もう寮生活じゃない、一人暮らしの倉持の家で?と二人だったのかって、まぁ、俺に怒る権利も何もないから黙って聞き過ごしたけど。大学生になった途端そんなかよ、と呆れたことは言ってないけど。心のなかでは気にくわなかったのは事実。
今や高校時代をひっくり返したような関係になっていた。以前は、俺との距離が近くて、倉持とは部活以外で話す姿なんてレア中のレアだった。クラスも違ってたし。それが数年後、俺とは音信不通で倉持とは毎日のように顔を会わせる逆転が起こるなんて誰が想像しただろう。俺だって、そうなるのがわかってたら、なんて不毛な後悔を何度繰り返したことか。
を好きだったことに間違いはない。多分あいつも俺を好きだったんだろうなと薄々察しがついていた。じゃあなんで言ってやらなかったんだ、と倉持に突っ込まれたとき、俺はさあな、と笑ってごまかした。部活をやっていた頃はまだしも、引退してからいくらでも機会はあっただろうに、と返された言葉に思い返すも、その頃にはもう気持ちはぬるま湯に浸っていたのだ。お互い気持ちをなんとなく悟ってしまい、意地が先行して口を閉ざした。好きと言わない代わりに毎日くだらない会話を繰り返して、離れていかないようにとその手を繋ぎ止めた。そんなあやふやなものばかり溜め込んでも、結局今じゃ何にも役に立ってない。彼女の隣に俺はいないし、もっと近くにいる倉持の話を聞いて、得体の知れない何かを募らせていくだけ。
今でもアイツは俺のこと好きだろうか、なんて考えるだけ無駄だった。だって気持ちがあったら行動に移したっていいはずだ。から連絡が来ないって、きっとそういう意味なんだろうと納得した。その癖、多分男は作ってねえんじゃねえの、という倉持の適当な答えに安堵も覚えていた。自分のものに出来なかったのに、一番近くにいたのは自分だと、心のどこかで思っていたかったんだと思う。
それがビックリするほど呆気なく壊されたのが、ものの数分前のこと。遅れてきた俺のために、一度は始まった宴を仕切り直そうとしてくれて、おまけに一軍昇格祝いだなんて言ってくれてありがたいなと思ってた。倉持、やっぱりお前良い奴だなって思った。でも、そこで見た倉持との距離感に、この二年間の大きさを目の当たりにした。ぐしゃぐしゃ、と容赦なく彼女に触れる倉持と、それにただ口をとがらせる程度の反応で受け入れる。扉を開けたが俺と、二年振りに相対したあの時は、その瞳をこれでもかって位大きくして、言葉すら発してもらえなかったのに。散々話に聞いてきて頭では解っていたつもりだったのに、大きく打ちとられた気分だった。馬鹿げてる。
「おーい御幸、お前ペース早くねえか」
明日大丈夫なのかよ、と倉持が俺のグラスを一度取り上げた。答えるまで返してくれない仕様だ。
「午後にトレーニング入れてっけど、ほぼオフ」
だから平気だと、催促の手を伸ばした。それでも倉持は何故か渋って俺を訝しげに観察している。さっきまで向こうでゾノたちとでかい声で盛り上がっていたのに、いつの間にかこっちへ来たかと思うと俺の心配までするなんてお前はマネージャかと突っ込みたくなる。元々そんなに弱い性質ではないし、要らない心配だというのに、倉持の眉間に寄せられた皺はとれない。
「久しぶりに皆と会ったんだ、飲みたくなるだろ」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ」
苛立ち交じりに会話を切り上げ、倉持の手から飲みかけのレモンサワーを奪った。お前はよく顔合わせてるからわかんないだろうけど、と一言付け加えると、また面白くなさそうに顔をしかめる。アルコールが進むと口数が多くなるのが俺の酒癖で、それが良いか悪いかは、まぁ時と場合による。
残り少ないグラスを煽ると、底の向こうにとナベの姿が見えた。座敷の部屋ということもあって移動もしやすい個室なのに、現に他の奴等はしょっちゅう立ったり座ったりを繰り返しているのに、二人はずっと同じ場所で話し込んでいる。時折、木島だったりゾノだったりがに飲み物を頼んでいるのを見ると、彼女にはそれがいつもの景色なのだとわかった。まぁ、店員への対応は酒が入ってもしっかりしてる奴が望ましいし、この面子のなかでも彼女が妥当なんだろうなということは想像がつく(例に漏れず倉持からがほどほどに酒が飲める奴だとは聞いていたので)。それにしてもナベとそんなに仲が良かったなんて意外だ。いや、また卒業してから接近したパターンか。俺は何回この失望感を味わえばいいわけ。
「お前、見すぎ」
鼻先で俺をせせら笑うと、倉持は「あいつ来てねえんだ?」と俺の心のうちを見抜いてそう言った。皆、入れ代わり立ち代わりで一軍に上がったこと、試合に出たことを祝いに俺の元にグラスを合わせにきてくれた。ナベも、一番最初に乾杯をとった時に話し掛けてくれた。でもだけは、ずっと壁の花を決め込んでいる。ついでに俺を見ようともしない。俺がこんなに何度も見てるのに、一度も視線がすれ違わないって、眼中にもないって、そういうことか。
倉持が、面倒そうに頭を掻きながら「ったく、一言でいいから言えっつったのによ」と愚痴をこぼしている。まるで保護者のような台詞だったのが、また気に障る。喉から手が出るほどそのポジションが羨ましいわけでもない。なのに、あの花を誰かが俺から遠ざけようとすることには、どうしてか腹が立った。つまらない仕返しのつもりで、倉持が席を立った隙にアイツの携帯で遊んでやろうとテーブルから取り上げる。倉持の誕生日を入力したら呆気なくロックが解除されたので、こんな低セキュリティで大丈夫なのかとちょっと心配になった。たまたま来ていた沢村からの連絡を適当に返信をしてから、アルバムを広げてみる。カメラなんて使わないかと思ったけど、意外とたくさん写真が入っていた。でもその殆どが周りの人間ばっかりで、倉持本人が映っているものはごく少数だった、そんなところも奴らしい。そこから見えてくるような倉持の生活の世界は、どれもこれも俺の知らない世界だった。ほんの二、三年前はいつも同じ景色を見ていたのに。そこそこ年季の入った寮と、私立の無駄にきれいな校舎と、死ぬほど走らされたグラウンドと。
そりゃ酒も進むだろ。たった三年一緒に野球した連中なのに、そいつらと久しぶりに会うってだけなのに、こんな感傷的になってんだから。
ふと夢中になっていると、畳を踏みしめる音が聞こえてきて、思わず反応すると、「ひ、久しぶり」と変につっかえた挨拶をしてきたがいた。あからさまに肩に力が入っている様子に呆れながら、よう、と返事をした。良くも悪くも意識されていることに少しプレッシャーがかかる。さて、何と切り出すのが正解だろうかと、携帯をテーブルに戻しながら俺は頭をめぐらせた。まさかとの会話に戸惑う日が来るなんてな、と半ば自嘲的な気持ちで苦笑していると、彼女の視線が今まで手にしていた携帯に注がれていることに気付く。そして言われた言葉が、俺に刺さった。
「倉持とカバー、お揃いだったの?」
今しがた手放したスマホを、俺のものだと勘違いしたらしい#苗字の言葉に、#すっ、と心が冴えていくような気分だった。倉持の携帯のことなら知っている事実に、愕然とした。俺だってチームメイトのカバーデザインなんか逐一覚えてない。女子みたいに個性的な装飾があるなら未だしも、無地一本みたいな地味なもの、記憶にない。でもお前は覚えてんだ、倉持の。やっぱそれくらい一緒にいるんだな、こいつら。そう思ったら自然と口角が持ち上がっていた。
「アイツのって、すぐわかるんだ?」
俺の性格を知っている人間なら、この言い方をすれば十中八九嫌味と捉えるであろう口調だった。それがたとえ本音混じりのものだったとしても、だ。案の定、は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐにその表情に落ち着きが戻った。先程までの堅さはなくて、これはこれで正解だったな、と一人結論に至る。
「まぁ、倉持とは部活でよく一緒に行動するから」
「大学も一緒、部活も一緒。そんなに倉持クンが好きか」
「あのね、倉持追っかけて入った訳じゃない」
「あっそ」
全部知っている。大学を選ぶときはまだ俺は近くにいたから、その話を聞いていた。そこそこ通いやすくて、の偏差値とも相性が良くて、キャンパスの雰囲気も気に入ったとかなんとか言ってた。野球部に入ったのは倉持から聞いたけど、どうも亮さんが引っ張り込んだらしい。偶然だなんだと言い張るや倉持の言い分もわかるけど。でも一歩引いたところにいる俺からしたら、十分揶揄したくなる。さっき、扉を一枚隔てて聞こえてきた倉持との会話がよみがえる。何がいつもの、だよ。それでちゃんと奴の希望通りの物を注文するだ。
「パッと見でスマホもわかるし、酒の好みもわかる? ずいぶんな熟年夫婦になったじゃん」
「別に、倉持だけじゃなくて、小湊先輩のも知ってる」
「へえ。じゃあ先輩たちもお前の好みわかるわけ?」
答えはきっとノーだ。先輩後輩関係なんてそんなもんだ。その証拠に、がむっと口をつぐんでいる。俺から笑顔は消えない。
「何が言いたいのよ」
「別に、お前変わったなぁって実感してただけ」
「流石にもう成人したし」
「成長したとは言ってねえけどな」
「一言余計……!」
遂にの顔から笑顔が消えて、うっすら青筋さえ見えたような気がした。怒ってる。怒らせたけど、久しぶりに交わした彼女との言葉の応酬に、俺は気分がよくなった。打てば響く様なテンポに、元より恋人というよりも友人の方が似合っている、なんて言われたことを思い出した。あれは亮さんに言われたんだったか。言われた通り体裁的には友人のままで終わった高校時代に、少し返ったような気がしていた。
「……って、そうじゃなくて!」
仕切り直すようにぶんぶん、とかぶりを振ってから、が手にしていたグラスをずいっと突き出す。やや溶けた氷が、残り少ないアルコールに浮かんでカラン、と鈍い音をたてた。
「い、一軍デビュー、おめでと」
まるで合わせろ、と言わんばかりの横柄な差し出し方である。でもそこにの照れ隠しが見えたような気がして、俺は声を我慢することなく笑った。「笑ってないで、早く!」そうは言われても、さっき飲み干したばっかりだから、俺のグラスは空だ。けど素手でなんてわけにもいかないので、そのまま軽いグラスを持ち上げてのそれにぶつけた。サンキュ、と応えた俺の言葉に被せるように、コツン、とまるで響かない音がした。
「なんだ、全部飲んじゃってたの?」
「さっきな。だから、お前のちょうだい」
半ば強引に奪ったのグラスを傾けて、残り少ない中身の半分が喉を通り越したところで、が「……水でも飲んでればいいのに」と苦い顔で文句をぶつけてくる。
「ケチくさいこと言うなよ」
「私だって飲みたかったのに」
「さんざんナベと向こうで飲んでたじゃん」
「さんざんって……そんなに飲んでない。ナベちゃんお酒飲まないし、」
「……ナベちゃん?」
慣れない言葉に思わず聞き返してしまった。口に出してから、まずかったと後悔する。意図的に難癖つけた先程とは違うので、俺も誤魔化しようがなくなってしまった。
「ナベちゃんは、ナベちゃんだけど」
「……渡辺のこと?」
「うん」
聞かなくてもわかりきっていた答えに、改めて俺は落胆する。ショックというか、なんだこれ、ジェネレーションギャップ? それとも、浦島気分ってやつ? たった二年の空白にそれほどの威力があると思わねえっつの。
「ナベちゃんがどうかしたの?」
「……いや、呼び方、変わったんだなーと」
「ああ、そこ?」
「そこしかねえよ……」
さしも大した問題では無さそうに片付けられそうになった。いや実際大したことはないけど、俺だって別に御幸ちゃんとか呼ばれたい訳じゃないけど、とそこまで考えて、はたと気付く。俺、今日名前呼ばれたか。振り返るのは出会い頭と、そして今の会話を辿るだけで事足りる。短すぎてそれにも少し涙が出そうになるが、結果、呼ばれてない。御幸と呼ばれるよりも倉持と聞いた方が記憶に残っている。非常に残念な記憶だが。
呼び捨てにするのなんて大抵野球部ぐらいで、クラスの男なんか君付けで呼んでた奴が、そう思うと傷心も一入である。俺はそろそろ認めざるを得なかった。彼女の変化に関わるのが倉持でもナベでもどっちでもよかったのだ。或いはどこぞの誰とも知らない人間でも。彼女が俺にどんどん知らない景色を見せてくることが、非常に不快で、寂しくて、つまらなくあったのだ。
「……お前変わったな」
だから、ぽろりと零れた己の言葉を拾おうとも思わなかった。嫌味ひとつ付け足す気力もなくて、完全にネガティブな独り言が行き場をなくしてそこに留まる。別に届いてほしいとも思わなかったので、そのまま見えなくなって埋もれてしまえばいい、そんなことさえ考えていたのに、大きなため息が聞こえて振り返れば、何言ってんの、と言わんばかりの呆れ顔を呈したがこちらを見ていた。
「私は、変わってないと思ったけどね」
「俺?」
「うん。ちょっと前までは、ニュースとか、雑誌で見るたびに、遠い人になったなーって思ってたし……実際今日も少し思ったけど」
言葉尻が徐々に萎んでいくのは、少なからず淋しさを含んでいたからだろうことは、俺にもわかった。経験で辿るならば、引退した先輩に感じるような惜別の念。彼女の場合はそれに加えて、俺が言葉を越えた特別な相手だったから、そう信じたかった。
「今話したら、相変わらずの嫌味とか、性格の悪さだったから……安心した」
ふう、と言い切った勢いで息をつく。久しぶり、と自分に声を掛けてきた時のを思い出して、あの時の肩に力の入った態度はそういう意味だったのかと合点がいった。時間が経っていたことにではなく、距離感が掴めなかったことに力んでいたのか、と。それは、彼女の周りの変化ばかりに目くじらを立てていた自分とは違って随分大人に見えた。
「御幸が変わってなくて、私は、嬉しかったけど。……御幸は違うの」
窺うようなの視線を受け止めて、俺はその日初めて、心の中が洗われたような気分になった。
そういえば、真っ黒だった髪が幾分明るくなっていた。長さは俺の記憶のなかと変わらないけれど、男がワックスでセットするみたいに、何か形を整えているのだろう。そのせいでどことなく大人びた雰囲気に見える。が酒に強いって倉持から聞いたときはいまいち繋がらなかったけど、こうしてみるとそれも違和感なく頷ける。俺の答えを待つ間、きゅっと引き結んだ唇には色もついている。けどそれは、よく礼ちゃんが外仕事用に使っていた強い赤とは違って淡いもので、そう思うと幼さくも見えてくる。
普段はしっかりしていて、俺の不調も一番に気付いてくれるほど頼もしかったけれど、手を繋いだだけで顔を赤くして、いつもより無口になってしまうほどの初さを持っていたあの時と、本当には変わったか。真っ白になった心にそんな問いが浮かんだ俺は、せっついて答えを出す前に、空いた彼女の左手を握ってみる。「な、何?!」と小さくパニックになる彼女の表情の変化を俺はじっと見守った。何か言いたいけど上手く言葉がでない、動揺するはただ口を開けたり閉めたりしているだけ。そして、次第に頬に赤みが宿る。
「手握るとすぐ照れんの、変わってねーな」
「せ、成長してないって言いたいわけ!?」
「まぁ、いい意味で?」
こんなことどうってことない、そんな反応だったら流石にもういろんなことに諦めがついたはずだった。でもは相変わらずだった。聞けば、俺も中身はそのままらしい。じゃあまた、昔の続きができるんじゃねえのってほくそえんだのは、内緒。だって振り払われないこの左手を、どう解釈しようが自由だろ。
「ていうか、今日のどこで性格悪いって再確認したよ?」
「……くらもち」
「は? 倉持?」
「倉持と私がそんなんじゃないって知ってたくせに」
あれは冗談半分、本音半分だったんだけど、は俺がからかうために言ったことだと思い込んでいるらしい。それならそれで波風は立てないようにしておこうと思い「お前らが仲良いからつい」と笑ってごまかしたものの、「全然反省してないならもういい」だなんてスパッと断罪されてしまった。寧ろあっさり見抜かれたことには少々の感動すら覚えたくらいには、舞い上がってた。
「で? 実際はどうなんだよ、好きなの?」
「だから好きじゃないってば」
「じゃあ誰が好き?」
「それは──」
そんなやつが存在する仮定を言葉にねじ込めば、案の定反射のように口をついて出る言葉。でも単純じゃないから、この陽動に引っかかる前に言葉が途切れる。
「言わない! じゃなくて、いない!」
慌てて言い直した否定に、また深読みしたくなる。本人が否定するなら、倉持に気持ちがないのは多分本当なんだろう。でも今までに一度も傾いたことがないって言えるか。新しい場所で出会った年上、年下の輩に、少しでも心奪われる瞬間はなかったのだろうか。そう考えると如何に自分が彼女の外側にいるかを思い知らされるようだった。これは、自分の気持ちを曖昧な行動なんかで飾ろうとした過去の自分の過ちによるものだ。苦さを甘んじて受け入れなければ先へ進めない。
散々後回しにしてきた、自分の気持ちを考えてみた。彼女に伝えることを怠って、離れてからは考えることさえ放棄したそれを顧みる。も、の周りのことも関係ない。明らかにするのは己がどう思っているか、今はどうしたいのか。

「なに?」
できるなら、俺はもう一度、に恋をしたい。恋い焦がれたいのだと思った。この手を離したくない気持ちを言葉で紡ぎたい。彼女の隣に誰かがいることが気にくわない、その気持ちを嫉妬だと名付けたい。でも今すぐには出来ない、だから。
「もうちょっと、このままでいたいんだけど」
彼女の手を掴む右手にぎゅっと力を込めて、己の存在を大きく意識させたかった。会わなかった間に募った気持ちの大きさは、きっと等号では結べない。きっとそれは俺の方が重いに決まっている。
「……もうちょっと、なら」
だから、少しずつ、けれど着実に、その差を埋めるようにしてあの時の続きを歩き始めようと思った。


恋をするための恋情

2nd,January,2021