内側の線まで、とのことだが、いつもお湯は少し多めになってしまう。大雑把な性格は遺伝だから仕方ない、これが私の常套句だけど、決まって「それは大雑把じゃなくて面倒くさがりなだけだろ」と指摘してくる人もいる。けれど今この場にはいないので、私は今日も多めのお湯をコポコポと注いだ。やっぱりラインより上だ。狙ってるわけではないんだけど、気が付いたら規定より多くなってしまうんだなぁ、これが。
注いだポットを脇に置いて、蓋をする。今日はうどんなので待機時間は五分だ。五分は五回ボタンを押さなくちゃならない旧式のタイマーなので、そろそろ買い換えたい。そんなことを考えながらピッ、ピッ、とタイマーの小気味よい操作音を鳴らしていると、傍らに置いておいた携帯が震えた。うわ、珍しい。

「はい、もしもし」
「俺」
「どちら様ですか」

名前はしっかり表示されていたけれど、これは電話が来たら私が口にする定型文なので向こうもあっさりと返してくる。

「一ヶ月ぶりに連絡とろうとしてるお前の彼氏です」
「はいはい、お久しぶりです」

今日の返しは今までの中でもかなり下手に出た言葉だったので、私は電話口でクスクスと笑みをこぼした。
高校に入ってから寮で暮らし始めた御幸と、今までのように連絡が取れなくなるのは今に始まったことではなかった。メールは何通かやりとりするけれど、お互い環境が違い過ぎているせいか話したいことは山ほどあるので、字面じゃ足りない。メールより電話の方が性に合う。お互いそんな性分だけど、会えない隙間を埋めるほどの時間を取れない。御幸の多忙さと私のスケジュールがうまく噛み合わなかった。

「……悪かったな、連絡できなくて」
「うん、いいよ。許す」

最低でも二週間に一度は電話しよう、と二人で取り決めたのは、高校に入って遠距離恋愛の現実を見てからだった。同じ都内で何が遠距離だ、って入学前は二人で笑っていたのが懐かしいけれど、それほど御幸は野球に真剣だったし、私も私で新しい環境に一生懸命だった。
大きな大会の予選が始まる、というのを告げられたのは約一ヶ月ほど前のことだ。また連絡が取りづらくなりそうだなぁ、と薄々感じてはいたが、予感は的中して、私が何度掛けても電話が繋がることはなかった。その度に、急いでないからかけ直さないでいいよ、とメールを送るけれど、それも段々虚しくなってくるから辛い。着信履歴に自分の名前ばっかり残ったら、何か重そうで嫌だなと思う。そう思うと御幸へ発信するのも戸惑われるから困る。私の小心さ故に電話する回数も減っているのに、開口一番に御幸は、まるで全て自分が悪いかのように謝るのだ。そんなことないって言うのに、いつも御幸は譲らなかった。

「お前、俺に甘過ぎじゃね」

許す、なんて偉そうに言う私を「何様だよ」って笑ってくれればいいのに、御幸は電話の向こうで少し呆れたような声を出した。どちらかというと真面目なトーンで。確かに一ヶ月も電話が捕まらなかったのは凄く久しぶりなんだけど、今こうして声を聞けただけでかなり浮かれている私としては、充分なんだけどなぁ、と心のなかで呟く。

「じゃあ厳しくする」
「……おう」
「今カップ麺出来上がるの待ってるから、電話はその間だけね」
「俺はカップ麺以下か」
「御幸より食欲が勝っちゃうんだなぁ、今は」

ごめんねぇ、と棒読み加減でそう言えば、ようやく御幸の笑った気配が聞こえた。あーあ、今の御幸の顔、見たいな。

「ていうか、お前こんな時間にカップラーメンとか食べようとしてんの?」
「ラーメンじゃなくてうどんだから」
「この時間に食べるのがアウトだろ」

御幸の言い分はもっともである。時計の針はもうそろそろ日付を越えようかという時分だ。バイトがあった日はいつもこんな時間に小腹を空かせてしまうのだ。

「……お腹減ったんだから仕方ないじゃん」
「太るぞ」
「うるさい。ちっちゃいカップにしたから大丈夫だし」
「いやー、今度会うのが楽しみだなー」

ケラケラと笑う御幸に、水着じゃなきゃ隠せるし平気、とそこまで考えて、だけどそれはちょっと寂しくなるからやめた。どうせ泳ぎになんて行けっこない。野球部の練習はみっちり埋まってて、貴重なオフは体を休ませるためのものだと理解している。だから海とか遠出して、疲れさせるのは何か違う。
暑くなってきたせいだろうか、海に行きたいだなんて思うようになったのは。それだけ夏が近い季節になっていた。この間出掛けたのはいつだったかなぁ。新しいクラスの話をした記憶があるから、多分四月くらい。しばらくご無沙汰なデートには、少し心がうずいた。私にいくら休みがあっても、御幸のオフがなければ始まらない。思うだけはタダで、無意味だからこそ気持ちが募る。どこかへ出掛けなくてもいい、ただ御幸に会いたくなってきた。

「私も御幸が眼鏡焼けしてるの見るの楽しみだなー」
「言ってろよ、今年もぬかりないから」
「まぁ、焼けてたら焼けてたで、会った瞬間恥ずかしくて帰るかも」
「はっはっは、そんなことさせねーから。勿体ねえし」

御幸のそんな言葉に、私は思わず押し黙ってしまった。
ただでさえ、こうして連絡も頻繁にとれる訳じゃないのに、面と向かって相対するのがどんなに貴重か、って言うのがわからないほど馬鹿じゃない。私にしてみれば、大袈裟でもなく、一分一秒が惜しい。他にくだらないことやってる暇があったら御幸に会いたいのが本音だ。
けれどたまに、御幸は私より、野球にそういう思いを抱いてるんじゃないかなと思うことがある。私ですら部活で試合に負けたとき、もっと練習しなくちゃって悔しく思うのだから、御幸がそれ以上に思うのは必然だと思う。私なんかに会うより練習したいんじゃないかな、なんてネガティブに思うこともしばしば。
だから、卑屈になった私のあたまをこんな風にズバッと両断されると驚いて、照れる。ああ、御幸も私と会う時間を、貴重だと思ってくれるんだって。嬉しくて、頬の緩みが止まらない。

「勿体ねえ?」
「うん、勿体ねえな」
「じゃあパンダにだけはならないでね」

他は真っ黒になってもいいから、と付け足すと、了解、と笑われた。

「で、他には?」
「ん?」

促されるようにそう聞かれたものの、私はなんのことかさっぱりで首を傾げる。

「他に我が儘あったら聞いてやるよ」
「……何か今日気持ち悪いくらい謙虚だね?」
「お前なー、言うに事欠いて気持ち悪いって、ねぇだろ」
「だって、ちょっと今鳥肌が、」
「どういう意味だ、どういう」

こればっかりは個人差だと思うけれど、私と御幸は、月9ドラマのような甘ったるい恋人関係じゃないのだ。好きだの愛してるだの毎日言い合うカップルもいると聞くが、私達の場合は、そんなことが起ころうものなら間違いなく真夏の東京に雪が降る。いつも友達の延長のような雰囲気で、ほんとに付き合ってる?と友人に怪しまれることだってあったくらい。
それがここにきて突然のこの発言だ。気のせいか御幸の声色がいつもの三割増しで優しい感じがするし。

「なんか、御幸が彼氏みたいだ……」
「みたいってお前な……俺はお前の彼氏で、お前は俺の彼女で間違いないだろ」
「そ、そりゃそうなんだけど」
「じゃ、ほったらかしにしても文句ひとつ言わない出来た彼女を甘やかしたって、いいだろーよ」
「べ、別にほったらかしにされてないってば」
「いいから、それ位させろ」

まさか音信不通になっていたわけでもなく、ほったらかし、っていうのは少し違う気がして言い募るけれど、御幸は聞く耳をもたない。折角の電話で食い下がるのも憚られて、私は渋々頭を切り替える。甘やかすって、我が儘を言えって、そんなこと言われたら、私が答える言葉はひとつだ。この電話が始まってから、既に何度も思ったこと。多分代わりを探せばいくらでも同じ意味合いの言葉は見つかる。あのテーマパークに行きたい、とか、海に行きたい、とか。けれど、御幸が求めてるのは、そういうことじゃない気がした。もっと真っ直ぐな、飾り気のない言葉のような気が、しなくもない。
私の無言を戸惑いと取ったのか、御幸の声がまた届く。

「今だったら、お前のその我が儘を九割くらいの確率で叶えてやれる」
「え、」
「だから、言って」

ダメ押しだった。お前の声で聞きたい、と御幸が言う。電話越しに伝わるその声が、柔らかく私の心を解す。甘やかされる感覚は、少し気恥ずかしいけれど嫌とは思わなかった。彼に大事にされているんだと思えた。

「……御幸」
「うん」
「会いたい」

電話の向こうの御幸が、私の言葉に「俺も」と同意してくれた。文字を一つ一つ噛み締めるような重みを、彼の声音から感じる。その重さが温かくて嬉しい。じんわりと満たされたような心から、ぽろぽろと言葉がこぼれてくる。

「海とか行きたい」
「いいねぇ」
「それで、二人でアイスが食べたい」
「おう」
「御幸の笑った顔も見たい」
「うん」
「手、つなぎたい」
「うん」
「…………」
「キスしたい?」
「………バカ」

直球すぎる言葉に思わず悪態をついてしまった。そんな私に御幸が「ははは、否定しないんだ?」と追い討ちをかけるもんだから、 照れ隠しがバレているのだと知る。否定するわけがない、と言い返したのは、勿論心の中で。

「それ、今度の土曜に全部やるぞ」
「えっ」
「さっきそう言ったろ?」

『今だったら、お前のその我が儘を九割くらいの確率で叶えてやれる』それは、ただ私の背中を押すための言葉だと思っていた。けれど事実、叶ってしまった。

「じゃあ、九割くらいって、あとの一割はなんだったの?」
「あー……今すぐ会いたいって言われたら、厳しいなぁと思って」
「言うわけないじゃん、そんな無理」
「わかってるけど。でも、たまには無理言われてみてぇよ?」
「何それ、かっこつけてんの」

似合ってないよ、と突っ込むと、分かってるんだから抉んじゃねえよ、と幾ばくか落ちたトーンが返ってきたので笑う。かっこつけて、いつもそれが様になってしまうのが御幸だ。でもたまに空回りして似合わないこともある。そういうときの御幸は、ちょっとだけ可愛いと思う。今少し拗ねてるんだろうなぁ、と声色から彼の喜怒哀楽を想像するのも、あと少しの辛抱だ。あと数日すれば、本物の御幸に会える。嬉しさが顔に滲むのを押さえられないでいると、少しぶっきらぼうな言い方で、御幸が「お前そろそろ時間じゃねーの」と話題を切り替えた。

「時間?」
「うどん待ってんだろ」
「ああ、そういえ───あれ!?タイマー動いてない!! 」
「はは、お馬鹿さん」

初めに設定した5分から一秒たりとも進んでいないタイマーに愕然とする。いやちょっと待った、と記憶を遡ると、そういえばスタートボタンを押した覚えがない。その前に電話が掛かってきて、私はそれどころではなくなってしまったのだ。

「御幸があと十秒遅く掛けてくれればスタート押してたのに……」
「なにそれ俺のせい?」
「もう何分経ったの……どのくらい私達話してた?」
「さーな。この際だし、うどんは諦めて電話続けるってのもいいんじゃ……」
「いっただきまーす」

ベリベリっと半分まで開けていた蓋を全て剥がしながらわざと大きな声でそう言ってやる。私は馬鹿、と言われたのをしっかり聞いていましたからね。

「彼氏よりうどん取るの、お前」
「今はね」
「あーあ可愛くねえ。さっきまでの素直さはどこいったよ」
「カップ麺マジックだったんじゃない?」
「なにそれ、待ち時間じゃないとデレてくれねえの」
「うそうそ、少し切りがたくて今喋ってるよ」
「……お前ずるい。もういいよ、召し上がれ」
「はい。おやすみなさい」
「ん、おやすみ」

プツリと切れたあとの携帯の画面に、御幸との通話時間が浮かび上がった。きっとそれは遠い夜空の下にいる御幸の電話も同じだろう。カップ麺の待ち時間にしては長すぎるその数字を見て、きっと私も彼も笑っている。


君に捧げる時間

20140929.
title by enamel