※引退した三年マネさんと御幸くんのお話です




白熱した試合の余韻がまだ肌に残っている。それでも辺りは静かになっていて、時間の経過を感じさせた。
少し時期を早めたOB戦は、最後に三年が逃げ切る形で幕を閉じた。秋大も始まっているので当たり前かもしれないけれど、新しいチームは、既にチームとして馴染んで見えた。馴染みの三年が誰一人としていないのに、青道だと思えてしまうから不思議だ。ちょっと見ないうちにすっかり変わったなぁ、としみじみ思う。受験組の私は、夏休みの野球部にあまり顔を出せずにいたので、このOB戦が練習場に足を踏み入れる久々の機会だった。秋大は順調に勝ち進んでいるらしい。一度くらい見に行きたいなと思っていたが、今日の後輩たちの活躍ぶりを見て、その思いはますます強くなった。
時間を潰しがてら、喉が乾いたので何か買おうと自販機までやって来た。夏は終わった。今じゃブレザーを着込まないと寒くなるくらいに、日が暮れると気温が下がる。それでも寮のこの自販機は、あくまでスポーツ少年達のためのラインナップで固められており、女子高校生が寒さをしのぐために買いたいものはなかった。コーンポタージュとか飲みたかったのになぁ、と愚痴りながら、ホットコーヒーのサンプルを睨んでいると、「さん」と後ろから呼ばれた。

「ここにいたんですか」
「御幸」

ユニフォームからすっかり私服に着替えたところを見ると、既にお風呂に入り終えたらしい。髪は少しまだ生乾きだ。風邪引くよ、と言うと、こっちの台詞ですよ、とため息が返ってくる。

「哲さん待ってるんすよね。だったら中に居ればいいのに」

試合を終えた頃にはもうすっかりナイター時頃だったので、同じように通いの結城が駅まで送る、と申し出てくれた。彼がシャワーだけ浴びてきたいと言うので、私はそれを待つべく、今に至る。

「ちょっと喉乾いたから何か買おうと思って」
「……俺も買おうかな」

私が再び自販機に向き直ると、御幸も倣うように私の隣に立って飲み物を選び始めた。いつもは忘れがちになるけれど、この男はなかなかどうして体格がいい。捕手としてのことを思えば頼もしい限りなんだけど、後輩としては、少々可愛らしさに欠ける。まぁ、それは身長に限った話ではないのだけど。
でも、今日の試合で見せたリーダーシップでそれもチャラだ。

「何にする?」

手早くお財布から五百円玉を出して、投入する。お金が落ちる音と同時に、隣に並んでいた御幸が驚いた声を上げながら私を振り返った。

「え?」
「キャプテン就任のお祝いしてあげてなかったなーと思って。買ってあげる」
「え、安っ」
「文句あんの!?」

キッと横目で睨めば、御幸は笑いながらも首を振った。「じゃ、遠慮なく」と御幸が選んだのは上段に位置する冷たいスポーツドリンク。そりゃお風呂上がりだしね、と取り出し口に屈む御幸の姿を見ながら納得した。

「御幸、なんだかんだキャプテンらしくなってたね」
「ははっ、なんすかそのやっつけ感」
「私、最初似合わないなぁと思ってたからさ」

確かに人を引っ張るタイプか、引っ張られるタイプかで言えば前者だろう、でもだからといって部活の頂点に向いているかというと、頷き難い。御幸は良くも悪くも自由な人だから、役職に縛られず、伸び伸びと思うようにプレーさせるのがいいと思っていた。

「でも久しぶりに見たら、なんかもう、しっくりくるから不思議だね」
「それ、ほめてんだかなんだかわかんねー……」
「ほめてるほめてる。たくましいよ、御幸キャプテン」

夏と比べて数段頼もしくなった横顔にそう告げると、御幸は少し驚いたように瞬きした後、どこかつまらなそうに口を尖らせた。

「……ホント、久しぶり」
「え?」
さん、夏休みは全然顔出してくれなかったじゃないすか」

あー寂しかったなぁ、なんて御幸が大袈裟に肩を落として言う。
その芝居がかった様子に少しだけホッとしたのは、御幸が珍しく寂しい、なんて感傷的な言葉を使ったからだ。まるで会えなかったことがダメージであるかのような、恋人同士でも何でもない自分達の関係には似つかわしくない言葉。そういうところを選んでいくのだから、御幸一也という人は相変わらず、人の心臓をもてあそぶのが上手い。
高鳴りそうになった胸元を抑えるように、私は大袈裟にため息をついて言い訳をした。

「当たり前でしょー?受験生の夏休みをなんだと思ってるのよ、天王山よ、天王山」
「でも貴子さんはちょいちょい来てくれてたけど?」
「貴子は頭いいから別」
「あー、成程、さんは頭アレですもんね」
「アレとか言うなっ」

少しだけ大きな声が出てしまったことが、ムキになっていたことを証明していた。それに気づいて、恥ずかしさがこみあげてくる。気が付くと御幸のペースに乗せられそうになるのは今に始まったことじゃない。

「……ホントっすよ、寂しかったのは」

だからちょっと殊勝な気配を見せられたって騙されまいと、まともに受け取らないのは私の仕様だ。御幸も多分、わかってそう言ってくるんだろうし。今日もまた、はいはい、残念だったね、と軽く受け流すと、ひでえ棒読み、と御幸は大してダメージもなさそうに嘆いていた。

「差し入れとか期待してたんですけどね」
「差し入れ?」
さんの丸いおにぎりがまた食べたいなーって」
「ちょっと、私のおにぎりちゃんと三角形だったでしょ!」
「あれ、そうだったっけ?」
「そうだったっけ?じゃない! もう!ほんとあんた可愛くない、折角誉めてあげたのに!」

これだから、という気持ちと、これでこそ、という気持ちが混ざる。それは多分、久しぶりに野球部の御幸に触れたからだ。もともと学年が異なるので、新学期になっても夏休みの時と同様、御幸とは接点が少ないままだった。顔を合わせるとすれば、試合の結果を話しに、三年の校舎に御幸や倉持たちが遊びに来るときくらい。
そういうときの御幸は、グラウンドの時と違って、何だか落ち着いている。今みたいな、からかってくるような後輩ではなく、ひとつ間違えれば同い年と勘違いしてしまいそうな雰囲気がある。これはイケメンだなんだと騒がれる訳だわ、と最初は納得していたけれど、まさか自分がその手にやられるとは、その時は思わなんだ。
けど、どっちかといえば、こっちの御幸の方が好きだなと思う。制服じゃないと少し脱力しているような、そんな男の方が。
……絶対言わないけど。

「久しぶりっていえば、」

ふと、御幸がペットボトルの蓋を捻りながら落ち着いたトーンで話し始めた。

「今日のスコアブック、さんが書いてくれたやつ見たら、なんか懐かしくなりました」

御幸の手元で、プシュッと空気の弾ける音がした。
もはや趣味かと疑いたくなるくらい、御幸は熱心にスコアブックを見ている。例え校内試合でもそれは変わらないようで、既に今日のそれも見たというから、その姿勢に感服する。
御幸のいう懐かしさには、私も同じ思いだった。毎試合すべて私が担当した訳ではなかったけれど、御幸が入学してからは私がスコアをつけることが多かった。今は後輩に託したそれを、今日久しぶりにペンを片手に試合を見て、本当に私たち引退したんだなぁ、と実感したのは記憶に新しい。

「今は、幸子が書いてるんだよね。私より字綺麗だし、良かったじゃん」
「んー……まぁ、うん」

御幸はペットボトルを少し傾けたあと、珍しく歯切れ悪く答えたので、なんだなんだと私は御幸を振り返る。すると、御幸は何か思い出したように、小さくクスリと笑った。その笑顔の意図がわからなくて首を傾げていると、すぐに説明してくれた。

「三振の時は殴り書きしてて、明らかに悔しそうだったり、逆にホームランの時は丁寧に書かれてて、ああ、嬉しかったのかなーとか。色々見えてきて楽しかったから、さんの時は」
「……え、嘘」

そんな風に書いている自覚、なかった。今更発覚した自分の癖に無性に恥ずかしくなる。うわぁ、最悪、と溢れた心の声に、御幸がハハハ、と笑った。けれど今度は突っ込む余裕はない。ちょっと居心地悪くなって御幸から目をそらした。

さんの字、好きだったなぁ」

御幸はキュッと飲み物の蓋を閉め、それからちらりと私を流し見る。何か言いたげに私を見ていることはわかる。けどそれをはっきり言わないのが御幸らしかった。だから文字通り受けとる。字でしょ、字。そんな風に考えている時点でなんだか負けているような気がしなくもない。

その時、私の携帯が震えて、結城からあと少しで帰れる、という連絡が入ってきた。加えて、待たせたことへの謝罪も綴られていた。申し訳なさそうにメールを打つ姿が想像できるような気がして、思わず笑みがこぼれる。
そんな私を察してか、「哲さん?」と聞いてきた御幸に、メールの画面を見せる。覗き込むようにこちらへ身を屈め、御幸が私にまた一歩近づいた。練習場の汗と土のにおいに混じってかすかに香るそれは、シャンプーか何かだろうか。こういうところで、御幸がここで生活しているんだという事実を思い出させられる。この感覚は、何度も遭遇したけれど、慣れない。

「……帰るんすか」
「……うん、もうちょっとしたら」

気のせいでなければ、画面から顔を上げた御幸の声は、少しだけ残念そうに聞こえる。そのことが嬉しくて、思わず緩みそうになる頬をなんとか誤魔化すように、結城へとメールを返信しようと携帯を持ち直した。その時だった。

さん」
「わっ」

私の手元を、御幸の掌がきゅっと包む。携帯を上から丸め込まれるようにして、まるで連絡手段を断たれたかのような気分になった。逃げ場がないような緊張が走る。突然のことに思わず御幸の方へ反応してしまい、そういえば近くにいたんだった、と近距離に迫った顔を見て後悔した。眼鏡の奥の瞳を認識するのに、数秒も掛からなかった。

「次は、いつ会いに来てくれます?」

こんなに近くで話されたことなんてなくて、かち合った真っ直ぐな瞳から視線を反らしてなんとか落ち着こうとしたけれど、難しかった。だってどうしたって視界からも、頭からも、御幸を外すことができない。たったひとつ、手を握られただけで。

「……野球部の試合は、時間があれば見に行く、けど」

そう言い返したのは、私の中に辛うじて残る理性の賜物だ。「会いに」その言葉に含まれた微細な甘美が私の動揺を誘う。言葉の綾だと言われてしまえばそれまでの、微妙なラインを挙げられて戸惑いながらも、辛うじて元マネージャーらしく答えるのに徹した。
だけど、それを聞いた御幸は、少し不満そうになる。そういうことじゃない、とでも言いたげに。

「あんまりひねくれてるとモテないっすよ」
「……み、御幸には言われたくない」

減らず口はお互い様じゃないの、と言外に含めるも、御幸はあっさりとした口調で「俺はずっと素直ですけど」と反論した。いつもの、御幸の余裕のある態度。だけどそこに場を茶化すようの色はまるでない。

「さっきからずっと、さんが恋しいって、伝えてる」

気持ち、私の手を捕まえている御幸の指先に、力がこもったような気がした。
さっきから───そう言われて思い出した、あの「寂しい」という言葉。思い出話のような今までの会話。御幸は確かに素直だった。それをまっすぐに受け取らなかった私は、確かにひねくれている、その通りだ。
それじゃあ、恋しい、というのも素直に受け取って良いんだろうか。
先程よりもうるさい鼓動は聞こえるのに、なぜか少し明瞭になった脳内で、呑気にそんなことを思う。

「それ、どういう意味?」
「……俺より大人でしょ、さん」
「ひねくれてるみたいだから、私」

できればもっと分かりやすく教えて欲しい、そう言って御幸のほうへ視線を戻した。視界に写った御幸の頬はほんのりと赤くなっていた。散々可愛くない、なんて言ったけど、今は少しかわいいかもしれない、と思ったのはまだ秘密にしておく。

「なら、もう言葉じゃなくてもいいですか」

そうじゃなくても口になんか出せなくなってしまったけれど。


奪われた呼吸

20140707.