女子は比較的逃げ道が残されている方だと思う。ちょっとごめん、と言えば同性はなんとなく察してくれるし、ハッキリと不調を訴えれば男子だって「大丈夫?」と気を使ってくれる。たまたまそういう人達に恵まれているだけかもしれないけど、とにかく私はこの飲み会でひどく飲みすぎることはなかった。そろそろアルコールが回ってきそうだなと思ったころでチェイサーを頼み、少し落ち着いたところでお手洗いに席を立つ。廊下へ出ると、すれ違う店員さんや他の個室の盛り上がる声に、ここでは醜態を晒せない、という自制が効いて、尚更ふらつかないようにと背筋を伸ばして歩くように気を付けた。トイレの鏡で自分の顔を今一度確認したら、その意識は尚更強くなった。アイラインは少し滲んでるけどまぁ許容範囲、と立ち直って盛り上がる個室へ戻ろうとする途中、後輩の一人とすれ違った。というか、すれ違うところだった。向かいから歩いてきた私にぶつからないように少し脇へ避けようとしたところで、彼はふらりと体を傾けたものだから、私は怖くなって思わずその腕を掴んで引き留めた。

「ちょっ、く、倉持!」

練習終わりの疲れではなく、お酒によるそのふらつきは、一歩間違えれば生死に関わるものだから、思わず必死な声で彼の名前を呼んでしまう。すると、びくりと肩を震わせて倉持が「な、なんすか」とその面を上げた。良かった、生きてる。不謹慎にもそんな安堵で笑顔がこぼれる。まぁそんなことを言ったところでまともに取り合ってくれないのは目に見えているので(男子はいつだって向こう見ずな生き物だ)、私は誤魔化すように、ほっとした笑みを、上から呆れ笑いに塗り替えた。

「倉持、今日飲み過ぎてない?」
「……へーきっすよ」
「ふらついてるけど」
「……そうでもねえっす」
「ああそう、じゃあ小湊におかわり頼んでこよっか」
「いやいやいや亮さんは勘弁してください!」

小湊は一体どれだけえげつない飲ませ方をしたのか、と想像するのも憚られるほどに、倉持は全力で私の行動を止めようとしてきた。ぎゅっと掴み返された腕は少し痛いくらいの強さで、思わず顔をしかめそうになる。奴はトラウマを植え付ける天才だなと思う。小湊だけは敵に回したくない、と改めて感じながら、倉持には「嘘だって」と宥めすかしておいた。冗談でも小湊の名前を出したことに罪悪感が生まれるくらい、倉持の様相は必死そのもので、私は心のなかでごめん、と付け足しておいた。

「どのくらい一気したの」
「まぁ……何度か」

覚えてないくらいなのか、ただ覚えてられないだけなのか、で話はだいぶ変わってくるんだけど、そう言ってもきっと伝わることはない。だから私は過去を諦めて「じゃあ少し休みなよ」とその肩を叩いた。都合よく私の腕を掴んでくれていたから、移動はしやすかったのが幸いだった。酔っぱらいを運ぶのは骨が折れる。ましてや自分より大きな体になるとそれもひとしおだということを、倉持よりも先に一緒に飲むようになった野球部の同期たちで嫌というほど身に染みていた。
廊下に立ち往生するのも邪魔なので、個室の入口の、靴を脱ぐための段差に倉持を座らせて、入口近くに座っていた増子から水の入ったグラスをひとつ頂戴した。溶けかけの氷が、だいぶ前に支給されたことを物語っている。

「水、飲める?」
「……うす」

体育会系御用達の、とりあえずイエス、みたいなその返事は少し虚ろ気味だった。お酒か、はたまた料理かでお腹がいっぱいなのかもしれない。無理に飲ませるのも悪いと思い、私は倉持の面前に持ってきていたグラスを一旦引いた。少し落ち着いてからにしよう、と私は彼の前にしゃがみこんで、視線を同じの程にする。

「頭痛ぇ……」

折角の髪型をグシャグシャにしながら、倉持がそう呟いた。飲みすぎを認めるいい独り言である。少し苦しそうにする倉持に、そうまでして飲まなきゃいいだけの話なのに、と思うけれど、でも実際はそう簡単な話じゃないのもわかっていた。
倉持は、かつて二遊間を組んだ小湊を始め、ひとつ上の私たちの代の仲間たちにとても懐いている。だから盛り上がって煽られれば、ジョッキをいくつ傾けることになろうと構わないのだろう。たとえ自分が後で頭を抱えるような状態になったとしても。いっそのこと前園のようにもう無理だと寝込んでしまえばいいものを、まだまだイケる、みたいな笑顔を張りつけて付き合ってるんだから、先輩思いなのか馬鹿なのか。
何故か未だ私の腕を掴んだままの倉持の握力に、いつもの覇気がないことがまた調子を狂わせる。野球の練習ならばどれ程練習したって構わない。その身に限界をちゃんと知っているから、「死ぬほどやった」といってもきっと死なない。でもお酒はそうじゃないから、だから私は今、心配になって倉持の傍を離れられずにいた。後で小湊か伊佐敷には飲ませ過ぎていると抗議をしに行きたいくらいだ。
頭が痛いと言っていたから、あんまり会話しない方がいいだろうかと思い、私は無言を貫いたままでいる。折角倉持と二人だというのに運がない。既に宴も中盤に差し掛かっていたが、今の今まで倉持は伊佐敷や小湊といった、彼の尊敬する先輩たちに捕まっていて、一緒に乾杯をする機会すらなかった。始めこそ倉持と同様に捕まっていた御幸は、少ししたのち、うまく逃げ出して「こっちの方がゆっくり飲めそうなんで」とか言って私とクリスで飲んでいた輪に加わってきたのに。ていうかどうせなら倉持も引っ張って来てくれればいいのに、なんて御幸への八つ当たりみたいなことを考えていたらバチが当たったのか、個室からひょっこりと当の御幸が「あ、さん、そこにいたんですか」と顔を出してきたから私は変な汗をかく羽目になった。

「な、何?」
「いやぁ、部屋出てったまま帰って来ないから、どっかでぶっ倒れたのかと」

その割には大して心配していなさそうな口調で言うものだから可愛くない。もう少ししおらしい後輩にはなれないんだろうか、なんて高校時代からずっと思い続けているけど期待に沿ってくれた試しがない、どうにもブレない男である。「ご心配どうも。生憎私は元気です」と嫌味を返せば、「じゃあまだ飲めますね?」なんていけしゃあしゃあと揚げ足をとってくるから、油断も隙もあったもんじゃない。後でね、と適当にあしらおうとすると、御幸がその顔にハテナを浮かべて私を見るので、私は顎を使って目の前に倉持がいることを教えた。倉持はちょうど私たちと御幸の真ん中に位置する太い木製の柱に寄りかかるようにぐったりしているので、御幸は私が相手する人が誰とは気付かなかったらしい。私の傍でダウンしている倉持の姿を認めると、御幸は「なんだ、ぶっ倒れてんのソイツですか」と隠そうともせずに笑った。

「倉持って結構強い方だと思ってたんだけど、違ったの?」
「いや、強いですけど」
「じゃあやっぱり小湊たちが飲ませすぎたんだね……」

困った先輩たちに私はため息をついた。あの人たちが倉持を潰してくれたお陰で私は未だ倉持とまともな会話ひとつできずにいるのだ。文句だって言いたくなる。すると御幸も、自分が倉持たちと飲んでいた時を思い出したのか、「まぁ確かに飲まされましたけど」と苦笑いをこぼした。

「こいつの場合は半分ヤケ酒っすから」
「ヤケ……?」

自棄酒といえば、酒を飲んでストレスを解消しようとか、そういう場合が思い当たる。倉持は何か飲まないとやってられないような嫌な出来事でもあったんだろうか、と気になって、私は何か事情を知ってそうな御幸に深く尋ねてみたくなった。だけど、それまで寝ているのかと勘違いしたくなるほどに無反応だった倉持が、力なく掴んでいたはずの私の腕にぎゅっと力を込めたことに思わず気を取られた。引っ張られた自分の腕が、倉持の体で御幸から隠されたような気がして、少しドキッとする。

「……余計なこと言ってんじゃねーよ御幸」
「はっはっは、何お前、起きてたの?確信犯?」
「うっせーな、テメエの声で起きたんだわ」
「ああ、良い夢邪魔しちゃった?悪いことしたなー」

倉持はそこそこ怖い顔で睨み、そこそこ低い声を出して不機嫌オーラ全開だというのに、それを受け止める御幸はケロリと揶揄し返している。倉持は具合悪そうだったのに、御幸が余計に機嫌を損ねるような煽りをするから、火に油、とドキドキする私を余所に、「確信犯はお前じゃねえか性悪」「潰れたお前が悪い。自業自得だろ」と二人の会話が淡々と続く。これは止めた方がいいの、と一歩踏み出しあぐねていると、思いの外会話は自然と終息に向かっていた。

「つーかもう黙れ。テメエと喋って余計な体力使いたくねえ」

正確には倉持が一方的に終わらせようとしていたのだけど。「元々突っかかってきたのお前だからね?」という御幸の正論もまるで無視。倉持はあっちへ行けと言わんばかりにシッシッ、と追い払うような振りをして会話を切り上げようとしていた。御幸はそんな勝手な倉持に怒る様子もなく、ただ肩をすくめる。お互いがお互いのあしらい方に慣れているのだと、私はその様子を見ながら思った。そういうところが少し羨ましいと思う。御幸は私なんかよりもずっと長く倉持と一緒にいて、彼のことをよくわかっているからだ。そんな男女の友情の差に嫉妬したって仕方ないことなんだけど。

「まあいいや。邪魔者は退散してあげよう」
「おー、さっさと失せろ」
「じゃ、さん、そいつ頼みまーす」
「え、あ、うん」

条件反射で頷いてしまったものの、私にこれから何をどうしようというプランなど全く頭になかった。ただふらついていた倉持を少し休ませようと座らせて、水でも飲ませて、落ち着いたらまた───と、そこまで考えて思い出す。倉持は部屋から出てどこかへ向かっていたんではなかったか。強引にグラスを進めてくる先輩たちからなんとか逃げ出して、盛り上がる宴会を抜けて、トイレとか、もしくは少し酔い覚ましに外へ出たかったとか。
先程までは会話は遠慮しておこうと思ったけれど、御幸と軽口の応酬をする倉持を見て大丈夫そうだと判断した私は、とりあえず喉を潤させるために水の入ったグラスを渡した。今度はすんなりと受け取って、倉持がごくり、ごくりと流し込む。真正面からその喉の動く様を見るのは何だか少しどきっとした。いやいや、何考えてんの私。危うく傾きそうになった思考を抑えて、私は口を開く。

「ねえ、倉持」
「……?」
「さっき、どっか行こうとしてたよね?」

私とすれ違った時、と付け足すと、無言で記憶を洗っていた倉持が「ああ」と思い当たったような声を出す。だから続きを促そうとしたのに、「あれは別に、なんでもねえっすよ」と倉持は素っ気なく話を切り上げてしまった。外の空気にでも当たりたいと思っていたなら付き添ってあげようと思っていたのに、こっちの後輩も可愛くない。倉持のにべもない態度に反抗したくなって、私はじゃあ、と質問を変えた。倉持が御幸に余計なことを言うなと釘を刺した、ヤケ酒の正体とは。

「何でやけになってお酒飲んでたの?」
「……」
「御幸が言ってたじゃん。小湊に飲まされたって思ってたけど、半分ヤケ酒だったんだってね」

顔を背けてあからさまに言いたくないというオーラが滲み出ている。わかってる。だから聞いた。倉持とひとつ歳が違っていて良いと思ったところは、こういうときに先輩後輩の関係を持ち出せるところだ。体育会の縦社会が染みついた倉持が小湊のジョッキを断れないように、倉持の目の前にしゃがみ込む私だって紛うことなき彼の先輩なので、黙秘なんかでその場をしのごうったってそうはいかない。人に介抱させているのだから、これぐらい聞いたっていいだろうという下心半分、理由によっては馬鹿な飲み方をしたお説教するつもりでいるのが半分で、私は倉持を問い質した。

「倉持くん、どうしてかな」
「…なんでもいいじゃねえっすか」
「飲みすぎで倒れそうになってたくせに」
「なってねぇ」
「なってた。心配したからやめて」

少し語気を強めて言えば、途端に倉持は渋い顔に変わった。その表情ひとつでばつが悪いと彼が悟ったことを知る。倉持はどこぞの眼鏡の後輩よりもずっと真っ直ぐな男だから、今度もさして押し問答を繰り返さずに済むとは思っていたけれど、彼の発した素直な理由に私は思わず瞑目した。

「───アンタが、ずっと御幸なんかと話してっから」
「え、」
「クリス先輩がいるっても、アンタらずっと盛り上がってるし……やっと席立ったかと思ったら、部屋出てっちまうし、帰ってこねえし」

聞こえてきた言葉は想像していたものよりもずっとストレートで、私は言葉に詰まる。黙る私を余所に、倉持は段々と口調をはっきりにして、睨むような、それでいて熱い瞳を私に向けた。この視線に弱いのなんてとっくに経験ずみなのに、目が離せなくなる。困った、抜けたはずのアルコールが戻ってきそうだ。

「だから追ってきた」

柔く掴まれていたと思っていた腕は、いつの間にかその対象を指先に変え、強く倉持のそれに絡めとられた。始めは、冗談で小湊の名前を出した私を引き留めるためで、でもそのあとも掴んでいたのは、きっと酔いが回っているからだと思っていた。お酒を飲むと時たま訪れる、少し人肌恋しくなる、童心のような感覚。倉持もそんなタチだと思っていたのに、幼さとはかけ離れた、離さないといわんばかりの握力に心臓がうるさい。さっきまで頭抱えて唸ってたくせにどこにこんな体力が残っていた。

「……手が、痛い、倉持くん」
「離したらまたどっか行くだろ」
「行かないってば……私のことなんだと思ってんの」
「無理。離したくねえ」
「───っ、」

熱のこもった瞳に見つめられて、どこぞへ行けるわけがない。そもそも彼の傍を離れるつもりだってなかったのに、まるで私が丸め込まれたような後味が残る。それは敗北に似た甘い誘惑だった。ああ、ずるい酔い方をしてくれた。

宵は待ち伏せ

20140917.
title by enamel