無我夢中で走っていた。自分が知りうる最短のルートを、出来る限り最短の時間で駆ける。それは、もうほとんど無意識の行動だった。頭でそうしようと考えていたわけではなくて、というかそもそもそんな余裕なんかなくて、私の脳内は、ただひたすらに、一人の仲間のことだけに占められていた。
 風間、風間。エスパーも念力も使えやしないのに、ずっと頭の中で彼に呼び掛けるように名前を呼ぶ。今、本部の医務室にいるという同期の仲間の名前。長らくの近界遠征でボーダーを留守にしていて、今日久しぶりに帰って来た彼の名前。私が会いたくてその顔を一目見たくて必死になっている、大切な人の名前。
 はあ、はあ。呼吸が荒れる。太刀川からこの一報を聞いたとき、運悪く実体でいたせいだ。これがトリオン体だったなら、もっとスマートに、それにもっと早く走れていたかもしれない。けれどそんなこと後の祭り。今は換装する時間すら惜しく感じてしまう。そんな暇があるなら一秒でも早く、風間の元に駆けつけたい。自分がこんな直情的な行動をとる人間だとは思っていなかった。人は、土壇場になるとやっぱり素直で居らざるをえないのだ。
「風間さん?あの人なら医務室行ってるよ」
 太刀川と司令部内で出くわしたのは偶然だった。私は任務を終えてちょうど帰るところで、太刀川はというと、彼は長旅から帰還したところだった。このトップアタッカーは近界への遠征に出掛けていたのだ。遠征任務は基本的に秘密裏に進められるもので、いつ頃帰ってくるのか、今どこに滞在しているかとか、そういった細々とした情報は滅多に公開されない。遠征には参加しない隊員が得られるのはせいぜい出発日がいつなのか、遠征に要されている期間はざっくりとどのくらいの長さなのかということくらいで、つまり、太刀川が本部にいることは私にとってはかなりのサプライズだったのである。
 あの時、太刀川がのんびりと廊下を歩いていて、当然驚きはしたけれど、でも今回も無事に何事もなく遠征を終えて帰って来たのだと思った。太刀川を始め、遠征に赴いていた全ての隊員が。だから心穏やかに風間の居場所を聞いた。けれど帰って来た答えは、私が思い描いていたどの場所でもなかった。上層部の会議室でも、彼の隊室でも、ラウンジでも食堂でもなくて、医務室だと太刀川は言った。当然、私の頭は真っ白になった。
「い、え、い、むっ、」
「医務室だって」
「なんで!?か、風間、怪我でもしたの!?」
「そう。怪我したから医務室行ってる」
 知り合いが、そんな予期せぬ事態となっていたことに動揺して、私の脳は上手く動かなかった。そんな私を見かねたのか同情したのか、はたまた面白がったのか、太刀川は医務室の方向へぐいぐいと私の背中を押し始め。
「お見舞い、行ってあげれば風間さん喜ぶよ」
 そう言って私を風間の元へと送り出した。そのきっかけのお陰で、なんとか私は走り出すことができて、今こうして、ようやく医務室の前までたどり着くことができた。久しぶりにこんなに全力で走ったせいで、一度や二度と、呼吸を整えるだけでは落ち着かなかった。けれど落ち着くのを待っている暇もない。一刻も早く風間の容態をこの目で確かめたくて、私は思いきり目の前の扉を開けた。
「かっ、風間!」
 病人や怪我人げ集まる場所に大声出して飛び込んでいくなんて、非常識にもほどがある、と怒られるかもしれないけれど、そんなことすら構っていられなかった。彼の安否がいかほどかということだけが頭を占めていて、だからか、部屋をパッと見渡した私は、ものの数秒で彼の姿を見つけることができた。その姿は見慣れた隊服ではなく私服を着ていて、薬棚の前で私に背を向けるようにして佇んでいた。
「……?」
 視界に捉えた後ろ姿が、私の声に少し驚いたように振り返る。風間は、目をぱちくりと瞬かせて私を見た。良かった、生きてる、なんてわかりきっていた安堵が、未だ荒い呼吸の隙間から漏れていく。太刀川はただ怪我をしたと言っていただけだから、命に別状はないことはわかってはいたけれど、どうにも不安は大きくなってしまっていたのだ。
 けれどその不安も、何かがおかしい、と気づき始めてからは、急速にしぼんでいった。怪我をした、と聞いたはずなのに、風間はどうにも五体満足な様子でそこに立っている。ついでに彼を手当てしているはずのスタッフの姿も見当たらない。医務室は静寂そのもので、走ったせいで慌ただしく肩で息をする私の吐息が変に響いている。とどめは風間本人が「そんなに慌ててどうした?」と私に尋ねてきたことだ。
「どうしたって、太刀川が、遠征、帰ってきてて、かざ、まの、こと聞いたら……」
 途切れ途切れに単語を並べるような話し方しかできず、言葉足らずな言い分になってしまう。聞き取りにくかったのか、風間は私の方まで歩いてくると、落ち着かせるように私の背中を擦ってくれた。その優しさに甘えて、事情を説明するのは少し諦めて大人しく、すう、はあ、と丁寧に呼吸をした。その間、私は近づいてきた風間の様子をこっそり窺っていたのだけど、やっぱり、どこも変わった様子はなかった。遠征に出掛ける前の風間と同じで、どこにも包帯とか、ガーゼとか、傷を治療した跡も見つからなかった。歩いてくるときもどこを庇うような素振りもなかった。おかしい。
「落ち着いたか」
「……うん、まあ」
「それで、『太刀川が遠征から帰ってきていて』、それから何て言った?」
 時を見計らって風間がそう問い掛けてきたので、私は一度、風間を観察するのを諦めて、今度は丁寧に言いたかったことを話した。
「風間はどこにいるの、って聞いたら、医務室にいるって言われて。しかも怪我したって言うから」
「……怪我」
 ふむ、と考え込むように今度は風間が黙りこむ。けれど彼が答えを出す前に、私は気付き始めていた。きっと風間は、どこも怪我なんてしていない。あれは多分、太刀川の嘘だったのだ。私をからかおうという生意気な後輩の仕組んだ罠に、私はまんまと引っ掛かったのだろう。太刀川は、ことあるごとに私をからかうのが好きだ。特に私が風間のことを、少なくとも一人の同期として以上に大切に思っていることを、知っている。正確には見抜かれた、の方が正しいのだけれど、そのことについて「どこまでいった?」とか「風間さんのどこが好き?」とか、これまた面倒くさいからかい方をしてくるのだ。その度にうるさい、と叱りつけてその場をしのぐわけだけど、残念ながら他の答え方をできるような進展が、私と風間の間にはない。あくまでも私達は友達とか仲間のようなそんな間柄で、太刀川が期待するような色っぽい何かが始まった試しはないのだ。
 どんどんと色濃くなっていく友情に、ほんの少しだけ、ロマンスを混ぜる方法をとはどんなものなのだろう。きっと些細なきっかけなのだろう。雫一滴、時計の針が一秒だけ動くようなちいさなこと。けれど、それがいとも容易くできたなら苦労はしない、と思えてしまうような難しいこと。
 太刀川の言葉に思案する風間の横顔をそっと見つめると、やっぱり溢れるように生まれるこの感情を、すんなりと彼に伝えられたらいいのだろう。たった二文字、好きと伝えてしまえばいいのだ。揺れる波紋のようにそこからきっと何かが始まってくれるに違いない。けれどそう簡単に言葉を紡いでくれる素直な私はここにはいなかった。
「怪我というのは」
「ああそれ多分、太刀川の嘘だとおも──」
「これのことか」
「う……え?」
 風間が人差し指を立てて何かを指していた。が、しかし、その先は天井しかなくて、上を見てももちろん答えは見つからなくて、私はもう一度風間を振り返る。そこでようやく答えに行き着いた。
「ゆ……び?」
「ああ、報告書類の整理をしていたら紙の端でスッパリ切れたらしくてな」
 よくよく観察すると、風間のその人差し指には小さな絆創膏が巻き付けられていた。小さな切り傷くらいなら、唾をつけておけば治るものがほとんどだと言うが、まれに切れどころが悪いと血が止まらないとか聞いたことがある。どうやら風間の怪我は後者の類いだったようで、絆創膏にも少し鈍い赤色が滲んでいる。
「怪我、してたんだ……」
「ああ」
「でも、大丈夫そう……だね」
「問題ないな」
 もともと喜怒哀楽が素直に顔に出るタイプではないにしろ、風間は至って平気そうな顔をしていた。その余裕そうな声色からも、大事ないことが窺えた。そうとわかった途端、私は大きな緊張のような何かがぷつん、と途切れたような気がして、思わずズルズルと壁を伝いながらその場に座り込んでしまった。後輩にからかわれた自分への不甲斐なさとか、心配に心配を重ねてここまで走ってきたことが全部水の泡だったこととか、大きな肩透かしを食らったようで、けれど実際、風間に怪我がなくて良かったと心配が杞憂に終わったことへの安堵も大きくて、とにかく力が抜けた。
「はぁー……もう太刀川、今度会ったらタダじゃおかない」
「怪我をしたから医務室にいる、か。まぁ嘘は言ってないな」
 近くにあった待ち人用のパイプ椅子を手軽に引き寄せ背もたれを肘置きのようにして座りながら、風間が少し面白がるようにそう言う。確かに、太刀川は嘘は言っていなかった。現に風間は医務室にいたし、怪我もしていた。けれどそうじゃないのだ。
「遠征行ってたっていうの考えたら、そりゃ誤解もしたくなるってば」
「俺が任務で何か大怪我をしたと?」
「うん」
「それで誤解してここまできたと」
「そう」
「誤解して、俺のことが心配であんなに慌てて走ってきた、と」
「そうそ──」
 半ば流れ作業のように頷きかけていた首をぴたり、と止めた。違う、と否定したかった訳じゃない。けれど素直に頷き難くもあり、中途半端に首を傾けたまま、向かいの風間を見上げた。相変わらず読みづらい表情で私を見下ろしているせいか、なんだか心のうちを見透かされているような気持ちになった。なんだろう、落ち着かない。
「……別に、そんなに心配してたわけじゃない」
「お前がそんなに俺のことで必死になるとは」
「話聞いてた?そんなに心配してないって言ったでしょ」
「あんな勢いで飛び込んできた奴に言われても説得力がないな」
 痛いところを突かれて私は思わず目を逸らす。心を読むとか、そんな不思議な力がなくたってわかることだ。私には、どんなに言葉で取り繕おうとも隠せやしない、馬鹿みたいに思い切り走ってこの部屋に飛び込んできてしまった事実がある。あの行動の理由なんて、誰がどう見ても、風間のことが心配で気になって仕方なかった以外の何物でもない。でもそれを改めて指摘されると、恥ずかしいものは恥ずかしい。しかも当の本人から。ここで一言心配だったとか、そういう可愛いことを素直に言えたならよかったものの、私の口から出てくる言葉といえば、「あ、あれはちょっとした運動、っていうか……」なんて、最後まで大きな声では言えないような情けない言い訳を並べ立てていた。自分で言っておいてアレだけど、運動は、苦しすぎる。頭上から、つまり風間から堪えるような笑い声が漏れ聞こえてきて、もっとマシな言い逃れ方はなかったのだろうか、と内心呆れる。けれどまあ、こんな苦し紛れを笑ってくれるだけマシかもしれない。
「なんにせよ、お前が騙されたおかげで手間が省けた」
 すると、風間がどこか満足そうな調子で話し始めた。騙された張本人としては聞き捨てならない言葉と態度である。一体何の手間が省けたというのだ、と疑問の視線を投げ掛ければ、私を見下ろす風間の瞳とかち合った。少しだけ細められた目元、それは楽しそう声色とは違って、どこか優しげに感じられた。
「俺も早くお前の顔が見たかったから」
「……は、」
「わざわざ探しにいく手間が省けた」
 今何て、と聞き返そうにも、喉がカラカラに乾いて声が出なかった。馬鹿みたいに開いた口が塞がらない。聞き間違いのような言葉がしっかりと脳に刻まれて、そっちの処理に慌ただしくて、脳は他の命令をなにひとつも出せやしないのだ。今、目の前の男は何と言った。誰の顔が見たかったって。探しに行く手間が省けたって、──私、を?
 あっけにとられる私を他所に、風間は、いつもは大して変化のないその表情を珍しくほころばせながら続ける。
「気にかけていたのはお前だけじゃないということだ」
 も元気そうでなによりと、そう言って微笑んだ風間に、私は小さく頷くことしかできなかった。気を抜けば緩んでしまいそうになる顔つきを引き締めるのに、私はどうにも必死でいた。今更取り繕おうとしたって、大して意味のないことだとわかってはいたのに。

素直のしっぺがえし

18th, May, 2016