水曜日、一週間のど真ん中。月曜から金曜までしっかり働いている社会人としては、まだ半分、もう半分。その時のテンションによってどっちつかずの気持ちが湧いてくる。ちなみに今日のところは後者だ。あと二日だけ働けば、週末。楽しみな予定のある休日を前にしている週は、悪くない気分だ。そんな折、幼馴染からの着信が舞い込んできた。そろそろ日付も変わるかという時分、特に取り留めもなくスマートフォンを持て余していたところに飛び込んできたバイブレーションは不意打ちのようで、けれど待ちに待った着信であったことには変わりない。

「幸男? わたし。遅くにごめんね」
「おう」
「おめでとう」
「おお」

パタン、と何かの蓋を閉めるような音を背景に携え、十数年来の幼馴染が端的にそう告げた。今度はバサバサと紙類を触る音がする。一体何の作業が行われているのか、との電話口から聞こえてくる不思議な生活音が気になって、折角の祝いの言葉にもおざなりな返事をしてしまう羽目になった。

「『おお』って、ちょっと、わかってる? お誕生日おめでとうって意味だよ?」
「わぁってるよ。もう日を跨ぎそうなくらいにお前が電話してきたってこともな」
「なに、待ってた? そわそわしてたの? 私の電話?」
「うるせえ」

待ってちゃ悪いのか、と悔し紛れに言おうとして、それでもやっぱり素直には言えず飲み込んだ言葉のおかげで、無音のこちらには相変わらず向こうの世界の音が聞こえ続けている。暫くコツコツ、と女性特有の靴底が固そうな地面を歩いていたかと思うと、ポーン、と短いチャイムのような音が聞こえてきた。覚えのある音だった。何度も足を運んだ、彼女のアパートのエレベーターが到着を告げる音だった。

「今帰りか」
「そうだよ。仕事。だから電話遅くなったの。拗ねないでね」
「誰が拗ねてるっつった」

今週は仕事が立て込んでいる、とは、もう前々から聞いていたことだ。いよいよの勝負の日が金曜日に控えているらしく、ここ数週間はろくすっぽ連絡がとれていなかったほどだ。
もっとも、そんなに頻繁に会わなければならないような必死な感情は、今更自分の中にはない。記憶には残っていないが、記録では歩き出す前からそれぞれの親同士に引き合わされて、出会っていた仲なのだ。数年前に見返した子供の頃の写真は、お子様特有の丸っこくてあどけない表情にあふれていて、今や見る影もない――と言うと大いに機嫌を損ねるだろうが――素直さがあった。その中ににうっすらと残る面影といえば、笑ったときにできる右頬の小さなえくぼとか。そのくらい見目も変わって、住む場所も離れて、働く世界も交わらない程に大人になってしまった二人が、気兼ねなく軽口を交わせる存在であることは、そうそう得難いものだという自覚はある。

「金曜のプレゼン、頑張れよ」
「ありがとう。……って何、もう切ろうとしてる」
「明日も仕事だろ。さっさと飯食って寝ろよ」
「わあ、そっけない。なに、やっぱり電話するの遅かったの拗ねてるじゃん」

いつの間にかガチャリ、と鍵を落とす音が聞こえてきて、やっと彼女が自宅にたどり着いたことを知る。こんな夜遅くまで女が一人でうろついて、と時代錯誤な父親のような台詞が頭に浮かんでしまうが、心配の一つや二つ、にぶつけたところでどうともならないことはよくわかっている。それは適当に受け流されてしまうわけではなくて、寧ろその逆、先程のように「ありがとう」と穏やかな声色で、俺の心配をしっかり受け止めてしまうのだ。お陰で彼女が一人暮らしをする街は、都心から少し離れてはいるものの、治安の良さでは群を抜く。

「はーあ、これからご飯、お風呂、家事かぁ。今日は無理じゃない?」

大きなため息とともに、そんな愚痴が聞こえてくる。だから飯だけ食って寝ろよ、と言うと、化粧がどうのこうの、そろそろ洗濯物がなんだかんだと、また更にため息が重なる。こうして口に出すくらいだ、面倒なのは本音だが、それでもやらないと後悔するのだと、本当のところは本人もそう思っているんだろう。言わないとやってられない、なんてところだ。
こういう時、よく実家にいたら、と一人暮らしになった当初は何度も思った。自分が自分のために作った手の込んだ食事より、誰かが何かしら作った残り物のおかずの有難味がここぞとばかりに沁みるのだ。

「お母さんのご飯が恋しい」
「そういや、こないだお袋の肉じゃが久々に食ったな」
「え! 幸男のお母さんの肉じゃが? いいなぁ〜」

笠松家のはあっさりしててほんとに美味しいよね、としみじみとが呟く。以前、家に連れて行った際に食べた、あの味を思い出しているらしい。散々食べ慣れている実家の味だからか、それともあの時、母親に脇腹をせっつくように言われた言葉のせいか、俺はあっさりしてたかどうかなんて記憶にない。普通の、どこにでもあるレシピで作った、普通の肉じゃがだった。母親もそう言っていたのだ。けれど彼女はどこか大切な、特別な味の一つのように回想している。

「そんなに旨かったか?」
「そんなにだよ」
「ふうん」
「幸男がはやく習得してくれれば、私もまた食べられるんだけどなぁ」

ジャガイモがすぐ溶けちゃうもんね、とけらけらと笑う幼馴染に、俺は苦し紛れに「お前が覚えたほうが早ぇ」としか言い返せなかった。
それでも、これは本音だ。決して器用とはいえない俺が、ちまちま料理が上達するのを待つより、器用で料理もそれなりにこなしてしまう質であるが覚えてしまったほうが、ずっと早い。俺が作ったものを食べさせるより、が作ったものを食べさせてもらう、の方が余程現実味のある話である。かといって、俺は何にもしないわけにはいかないから、せめてジャガイモや人参やそこいらの野菜の皮を剥くくらいはできるし、それなりの形に切ることもする。白米も炊く。肝心の味付けと煮込むセンスは任せることになるが、それ以外なら、やってやれないことはない。
こういう時、もし一緒に住んでいたら、疲れて帰ってきたお前に、せめて温めなおしたおかずのひとつくらいは準備できるし、電話なんてわざわざかけなくても、化粧がどうのと面倒がる愚痴をよっぽど近くで聞けるし、翌日後悔させないように風呂場まで背中を押して行く。
何せ、その日俺は誕生日だからだ。忙しい中、わざわざ「おめでとう」の一言を送るために電話をくれる優しさもいいが、「ただいま」をすぐに聞けるほど傍にいられたら、それ以上の幸福はないんじゃないかと思う。

「なんか肉じゃが食べたくなっちゃったなぁ。幸男のどろどろしちゃう肉じゃが」
「散々貶しといてよく言うぜ」
「不思議とねえ、癖になるんだよねぇ、あれ」
「……そんなに食いてえなら今週末、作ってやるよ」
「ほんと!? やったー! そうだ、週末晴れるらしいし、ベランダでビールも飲も!」
「プレゼン失敗して、ヤケ酒にならねえようにしろよ」
「……うっ、気を付けマス」

殊勝にそんなことを言いつつも、電話の向こう口では再び喜びの声が零れていた。そうか、雨続きの今週も、あと二日で終わるのか。晴れて迎えた休日は、久しぶりに料理をすることになる。の寄越したリクエストはささやかなものなのに、どうしてこうも、嬉しくなってしまうのだろう。まるで遠足を前にした小学生のように、浮足立ってしまう自分がいる。
しばらく会えなかっただけで、今更どうのこうのと騒ぐような相手ではない付き合いをしてきた幼馴染だ。だけど、会えるとなると話は別だ。一週間の折り返しの日が、あとたった二日だと気持ちが軽くなる。十数年来の腐れ縁が恋人という関係に変わって早数年。母親には「いつになったら結婚するの」とせっつかれて早数ヶ月。自宅のべランダで、なんて味気ないかもしれないが、溶けたジャガイモでもいいと笑うこいつなら、きっと笑って許してくれるかもしれない。


前々々夜

30th,July,2020
Happy birthday for Kasamatsu