冷蔵庫、キッチン脇の調味料棚、この間仕送りで送られてきた段ボールの中。思い当たる場所をとりあえず一通り探したが、目当てのものは見つからなかった。なんだってこんなタイミングになるまで大事な調味料を切らしていることに気づけなかったんだ。キャベツも洗って切って、先に胡麻油と白ゴマでの味付けもしてしまった。後は一番の柱である塩を振りかけるだけだというのに、そいつが見つからない。扉を隔てた向こうの部屋のテレビから漏れてくる深夜のノリの芸人の笑い声が、ひどく滑稽な自分を嘲笑っているような気がして、癪にさわった。


明日が期限のレポートを数時間の格闘の末なんとかやっつけて、祝杯がわりに一杯飲もうと笠松が思い立ったのは、日付が変わって少し経った頃だった。夕飯はそれ以前にきっちり腹に収めていたが、なんとなく酒のつまみが欲しくなって、有りもので何か作ろうと冷蔵庫を開けて数分悩んだ。結局、先日一人暮らしの様子を見に、とやってきた父親が大量に持ってきた野菜の中から有り余っていたキャベツを選んで、居酒屋で定番の塩キャベツを作ろうと決めたのだ。葉を適当に洗って千切って調味料を合わせている途中で、いつもの塩の容器の中身が空っぽだということに気付き、今に至る。軽くなった塩の入れ物をどんなにひっくり返しても欠片ひとつ出てこない。無くなったのなら買っておけよ、と過去の自分を呪う傍ら、ここ最近は外食続きでキッチンにもほとんど立たずに過ごしていたから調味料のひとつやふたつ切らしていたことを忘れても仕方ないのかもしれない、と冷静に分析する自分もいた。
チクタク、と秒針の刻む音につられて時計を見る。時刻は日を跨いでから半分以上が経とうとしていた。明日の予定を思えばあと数時間夜更かししていたって構わない。だからレポート終わりのご褒美のためにと思って取っておいたNBAの試合のDVDもテレビの前にスタンバイ済みである。あとはつまみを片手に一本か二本缶ビールを空けてレポート終わりの解放感を楽しもうと思っていたのに、全ての予定が水の泡だ。塩が無いだけで。
隣人に拝借しに行く、という手がある。ひとつ隣には同じ学科で同じ授業を取っているが住んでいる。学校でも幾度となく顔を合わせ、家に帰っても時折出くわす生活が数年続いた結果、今では呑みにいくほどの仲になった。多分、俺がそうそう仲良くつるむ女なんてアイツしかいないから、一番身近な異性、ということになる。だからといって何か深い関係になっているわけでもないが、とりあえず塩を借りたいと家を訪ねるくらいならできる、そんな相手だった。だけど今日に限ってはどうだろう。俺と同じ授業を受けているから、アイツにも明日期限のレポートがある。それなのに急に人手が足りないと頼まれバイトを入れてしまったとかで、今夜は徹夜だと昼間学校で愚痴っていたのだ。もしかしたらまだバイトから帰っていないかもしれないし、帰っていたとしても死ぬ気で頑張っているであろうに向かって、つまみを作るから塩を貸してくれ、なんて少しばかりひどい気がして、なんとなく彼女の家の扉を叩くのは気が引けた。
そんな気後れなどせずに訪ねていける仲間がもう一人いる。の向こう隣に住んでいる、高校時代からの付き合いである森山由孝だ。同じ大学に通ってはいるが、学部が異なるせいか、広いキャンパスであまり出会うことはなかった。けれど高校時代の蓄積と家が近いせいで、飯を作るのが面倒くさいといってやたら部屋に転がり込んできたり、何度も合コンの頭数合わせに誘ってきたりと卒業しても未だ奴には手を焼いている。料理だって森山の方が自分より何倍も上手いものを作れるくせに「俺の料理スキルはいつかできた彼女のために振る舞いたい」とか言って手伝おうとしないし、合コンなんて俺の答えは「ノー」と決まっているのに毎月一度は誘ってくる。そういえば今日もどこかの女子大の面子と食事だなんだと浮かれていた。今夜も黒星だと面倒くさい愚痴を垂れ流しに俺の部屋に押し掛けてくるから、できるならなんとか勝ってきてほしいとは思う。でもそうしたら間違いなく今夜は塩を借りられない。くそ、コイツもダメだ。
残った最後のカードは、もはやコンビニに買いに行くしかなかった。今どきのコンビニなら調味料のひとつやふたつ取り揃えてあるだろうし、真夜中でも営業しているであろう無難な選択肢だ。ここから一番近いコンビニというと少し距離があるのだが、仕方ない。レポート終わりの凝り固まった体を動かすつもりで、俺は財布と電話を持って家を出た。

「……あ?」
「あ、笠松だ。こんばんは」

するとちょうど扉を開けたところで、俺の家の前を通りすぎようとしていたと出くわした。呑気に挨拶をしてきた彼女につられて思わずノブを握ったまま手が止まってしまう。の身なりはかなり気軽なもので、その手には俺と同じように財布、それからスマートフォンが握られている。どう見ても今しがたバイト先から帰ってきた様子でも、なにか買い物をして戻ってきた様子でもない。俺と同じ、これからどこかへ買い出しに行くように見えた。まさかな、とは思いつつ、家の扉に鍵をかけてそこで立ち止まっていたに向き直る。

「おい、もしかしてこれからどっか行くのか」
「うん、ちょっとコンビニまで買い物」

おおよそ昼間のテンションと変わらない様子で彼女はそう答えたが、残念ながら今は真夜中である。道路にはひとっこひとり歩いていないような夜半過ぎに、女が身一つでどこへ行こうっていうんだ、とやや呆れてため息が出た。

「あのなぁ、こんな時間に女が一人で外出るもんじゃねえだろ」
「子供じゃあるまいし……」
「年齢の問題じゃねえ」

性別の話だよ、と釘を指すも、は「ちょっとだけだし」とか「ここそんな治安悪くないし」とか口を尖らせて反論してくる。

「ちょっとでも治安がよくても時間を考えろ時間を。真夜中だぞ、今」
「笠松だってこんな真夜中に出かけるつもりじゃん!」
「俺の話はどうでもいいんだよ!」
「ずるい、自分ばっかり棚にあげてる!」
「へりくつ言ってんな!」

ああ言えばこう言うものだから、ついむきになって夜分ということも忘れて声を張り上げてしまった。そのことにハッとして思わず口をつぐむ。俺だけでなくも近所迷惑の言葉が脳裏に浮かんだのか、さっと口元を掌で覆い、そそくさとあたりに視線をめぐらせた。
すると、俺の背後に目を止めて「あ、」と彼女が小さく声を上げる。どこかの家主を起こしたか、とつられて俺も振り返ると。

「おーい、そこまで聞こえてたぞ、お前らのケンカ」

いさめるような、それにしては緩いテンションでそう言いながらこちらに近づいてきたのは、飲み会から帰ってきたらしい森山だった。その身ひとつで戻ってきたところを見ると、どうやら今日は黒星のようだ。今夜も、の方が正しいけど。これで酔いまで回っていたらまた面倒くさい反省会に巻き込まれそうだなと危惧したが、俺との傍までふらつかずに真っ直ぐ歩いてきた森山は、思ったよりも素面のようだった。

「こんな真夜中にどうしたって?」
「聞いてよ森山、私がちょっとコンビニに行こうとしたら、笠松が危ないからって。お母さんみたいなこと言う」
「へえ?」
「……フツーに考えて女が一人で出歩く時間じゃねえだろって言ったんだ」
「まあ確かにな」
「森山もおんなじこと言うの?」

イーブンだった口論が思わぬ形で2対1になり、決着が着きそうだと予感したのか、のむくれっぷりが余計に膨らむ。
そんな彼女を森山がまあまあ、と宥めるようにとんとん、と肩を叩いた。そのまま、抱え込むように肩に腕を回してに寄り掛かる様は、端から見れば完全に酔っ払いのそれである。中年のサラリーマンが酔いが回って面倒くさい絡み方をし出すようなアレだ。ただし森山の話し口調は普段とあまり変わらないもので、だから俺もも何一つ態度を変えずに話し続けた。

「で、は何買いにいこうとしてたんだ?」
「氷買いに行こうと思ってた。課題の息抜きに冷たい物飲みたかったんだけど、うちの冷蔵庫の製氷器が壊れてて、今氷作れなくて」
「そんなことだったら俺んとこ言いにくりゃ良いだろうよ……」
「笠松も今夜はレポートやるってって言ってたじゃん」
「なるほど、邪魔しないように自分はコンビニに行こうって考えてたわけだ?」

あー、は優しい優しい、と言いながら、ぐしゃぐしゃと彼女の頭を撫でつける。子供をあやすようなやり口に、素面な振りして実はコイツ酔ってるんじゃないかと疑い始めた。だって普段よりスキンシップが激しい、気がする。けれどはそんなことを露ほど考えてもいないらしく、「でしょ!?」と自分の肩を持ってくれそうになった森山を引き込もうと必死である。
何だかだんだん構図が面白くなくなってきた。

「まあまあ、お母さんの心配もわかってやれって」
「誰が母親だおい」
「コンビニは諦めて、代わりに俺の家から氷取ってっていいから」
「えっ、本当?」
「何なら俺ん家で飲んで一休みしてけば?まだレポートの途中なんだろ?」

そう言うが早く、の返事も聞かずに、さあさあと森山がを自分の家へと連れ込もうとしていく。奴に引っ張られるようにして連れていかれるは少し遠出する手間が省けたとでも思っているのか、特に反対するつもりもないらしい。あの様子じゃ、今夜の森山の合コンの長ったらしい愚痴を聞くのは俺ではなくに変わったようだった。毎度のこと面倒だと思っていたから正直ありがたいと思う。きっと家に帰ってまた飲み直すんだろうし、今は素面みたいで良いとしても、ヤケ酒する奴の相手をするのはとてもじゃないけど進んで引き受けたいとは思わない。普通だったら思わない、はずだけど。
酔っぱらいかタチの悪い素面か、どっちにしても合コンに負けて帰ってきた傷心の森山は、男で間違いない。真夜中に女が一人で外を出歩くより男の家に上がり込む方が安全だなんて、そんな法則はありもしないのに、そうとは気付かずに丸め込まれそうになっている無防備なやつがひとり、目の前にいる。それを黙って見過ごせるかっていうと、そうもいかなかった。
自分の傍を通りすぎようとしたの腕を咄嗟に掴んで引き留める。うわっ、と驚いて不格好な声を出したにつられて、先を行こうとしていた森山もこちらを振り返った。

「俺も邪魔する」
「……げっ」
「あれ、笠松買い物行くんじゃなかったっけ?」
「ちょうど塩切らしてたから買いにいこうと思ってたんだけど、森山が帰ってきたなら借りることにする」
「なんだ、なら私に言えばいいのに」
「お前はレポートで死にそうになってるかと思って遠慮したんだよ」
「死にそうになってないし、もうすぐ終わるし」
「……あーハイハイ、またここで始めるんじゃないよお前ら」

やれやれ、と肩を竦めるように呆れた森山だけど、その前の一瞬に、なんとも嫌そうな顔を見せたのを俺は見逃さなかった。やっぱりな、と思う。けれど俺が何か言う前に、の呑気な質問が飛んできた。

「塩、何に使うつもりだったの?パスタ?」
「……つまみ。塩キャベツ作るつもりだった」
「えっいいな、いいなぁおつまみ」

夕飯は、と確認すると、食べたけど、と物足りなそうな反応が返ってくる。ああ、飲食のバイトだと飯を食う時間は普通の時間帯よりも早かったりするんだっけか。もしかしたら、コンビニへは氷を買いにいくとは言ってたが、それ以外にも何か腹の足しになるような物も買う予定だったのかもしれない。それはそれで少し悪いことをしたかと一瞬俺が怯んでいると、「よし!」と脇から森山が何か決意したように明るい声を出した。見れば見慣れた笑顔を浮かべている。あれは俺にとってロクでもないことをやってくれる確率七割、の笑顔だ。どこで役に立つかもわからない経験則から、俺はそんなことを察した。

「……なんだよ?」
「どしたの森山」
「笠松はつまみを持って俺の部屋に来い。それを肴に飲み直すぞ」
「わー!賛成!」

元気よく返事をしたのは勿論俺ではなく、だ。俺が諸手を挙げて喜ぶはずがない。こいつの提案に乗れば間違いなく今夜は楽しみにしていた試合のDVDを楽しむこともできないだろうし、面倒くさい合コンの愚痴やらなんやらを浴びるほど聞かせられることになるに違いない。なんとなく、この二人をこのまま二人きりにするのは納得がいかない気がしてああは言ったけど、飲み直すと言うこいつに付き合うほど居座るつもりなんかなかった。
大体、で、飲むっていったって、さっきまで何か冷たいもん飲みたいだとかって言ってたくせに、何で急にアルコールにすり替えてんだ。

「お前まだレポート終わってねえだろ」
「じゃあはレポート持ってくればいい。笠松が手伝ってくれるってさ」
「やったー!じゃパソコン取って来る!」
「お前らなぁ……」

何か反論される前にと先手を打ったつもりなのか、はさっさと自分の家に戻ってしまった。森山の相手をする上にのレポートを見る羽目になるなら、こんなことなら家から出るんじゃなかったと考えてしまいそうになる。騒がしいのが嫌いなわけじゃない。だけど、思い描いていたことがひっくり返るとなると、また話は大きく変わってくる。そして話を大きく変えやがったその張本人はというと、が家に戻るのを見送って、体を解すように大きく延びをしながらこんなことを言う。

「あーあ、見事にお母さんに阻まれた」

そのネタをまだ言うか、と森山に呆れるような視線を送ってやったものの、奴は何か言いたげな笑顔を浮かべてこちらを見ている。にやっと白い歯を覗かせる、嫌味なそれだ。

「そんなに俺と二人っきりにさせたくなかった?」
「別に、お前だからって訳じゃ──」

ふとそこで言葉を切ったのは、この、自分の答えの行く先が、思ったところにたどり着かない気がしたからだった。それは咄嗟のことで、確信を持っていたわけではない。でも二人きりにするのは良くない気がした、というのは本当だった。森山に限らず、それが別の男であっても俺は多分同じように止めに入っただろうから、特別森山に嫉妬したとか、そんなわけではない。だからこう答えたのは間違いではないはずなのに、森山の余裕は崩れない。
森山だから止めたわけでもない。じゃあ他の奴等ならいいのか、と問いをひっくり返されたら俺はなんて答える。やっぱり同じように答えは否だ。誰であっても引き留めに割って入る。そこまで考えて、ああ、俺は墓穴を掘ったかと、ようやく気付いた。

「俺じゃなくても邪魔したくせに」
「……うるせーな、そんなんじゃねえ」
「じゃあ、付き合ってる女の子もいないくせして、散々誘ってる合コンに一回も乗ってこない理由はなんだよ?」

俺の答えなんてとっくにわかっている、とでも言いたげに、森山はひどく楽しそうに笑った。


好きじゃないとは言ってない

20150708