人が人から奪ってはいけないものはいくつかある。間違えた。たくさんある。常識的に、モラル的に、個人的に、ひとつ角度を変えて考えてみるとそれは無限に存在しているので、うっかりしているとその地雷を知らず知らずのうちに踏みつけてしまっているなんてドジを、平々凡々な私のような人間がおかしていても、不思議ではなかった。だからといって自分のしていたことを正当化しようとか、開き直るつもりはない。ただ、反省と後悔と、切ない気持ちが私のなかに沸き上がる。寝る前に少し声が聞きたくなって電話したこと、少しでも話題を繋げたくて、別に気になったりもしていない黄瀬くんの話題を出したメールを送ったこと。あれは、やっぱり迷惑だったんだろうか。優しいから、その次の日も嫌な顔ひとつせずにおはよう、と私に声をかけてくれたんだろうか。断り方を知らなかったから、どうでもいい内容のメールを後回しにすることなく返信をくれたのだろうか。とても優しくて、切ない。言ってくれれば良かったのに、そんな風に思った。けれど、必死になって言葉を探し、選ぶ笠松の姿を見てたらそんな無粋な気持ちすら消えていく。少なくとも、今この瞬間、私をあまり傷つけないように一生懸命になってくれている笠松は、確かに私を大切にしてくれているのだ。それは紛れもない優しさの結晶だった。あとは粉々に砕けて溶けてしまうだけの、春を迎えた雪の結晶。それは五月の半ばと、雪解けには随分と遅すぎた時期だった。半年ほど付き合っていた笠松から、別れ話を切り出された。

言いづらそうに視線をあっちへこっちへ泳がせて、どう伝えるべきか言いあぐねている笠松に、私は始め、それが最後の話だとは欠片も疑わなかった。私とお付き合いを始めてからは随分と慣れた会話も、稀にしどろもどろになることもあったから、いつものことだと思った。それがまさか、さよならの話だなんてどこにそんなヒントが。

「なんだ、その……距離を置きたいっつーか、だな」
「距離……私と、笠松の」
「距離っていうか……あー、だから、メールとか、電話とか……」
「やめたい、んだね」

言いたいことの半分も言えていないような苛立ちに、笠松ががしがしと頭を掻く。でも言いたいことの八割はなんとなく察しがついた。要は別れて一度友達に戻るとか、そういう甘んじた結末にはならないらしい。結構厳しいこと言う。学校でたまに会ったときは、挨拶くらい許してくれるんだろうか。私はまだ好きだから、あからさまに目を反らされたりするのはちょっと堪える。まだ何の気持ちの整理もつかないのは私の方だけで、迷った末に切り出したらしい笠松の方は、もう充分割りきっているんだろうかとも思える。その上で私に気を使って、傷つけないように言葉を選んでいるというのなら、本当に大した男で、また惚れ直しそうになる。

「……理由、聞いてもいい?なんか、突然すぎて」
「ああ、悪い。そうだよな」

他に好きな女の子ができた。頷ける。去年は同じクラスだったけれど、今年は別だ。クラスに可愛い子がいて、その子と隣の席とかになったりして毎日顔を会わせていたら仲良くなった。そんなストーリーひとつ頭のなかで組み立てられるくらい可能性のある話だ。だって私と笠松の出会いもそんなようなものだったから。
もう好きじゃなくなった。頷きたくないけど全く無い話じゃない。人間いつどこでスイッチが切り替わるかわかったもんじゃない。昨日の友は今日の敵、とかなんとかそんなことわざなかったか。
けれど、笠松の切り出した理由はそのどちらでもなかった。

「今年が最後のインターハイだから、俺は、どうしても優勝したい」
「インターハイ……バスケ?」
「おう」
「部活に集中したいって、こと」
「無茶言ってんのはわかってっけど、でも、わかってくれねぇか」

そう言うと、笠松は「ごめん」と私に頭を下げた。距離を置きたい、そう話していた時とはまるで別人のように腹をくくった顔をして、迷いなくバスケを語る笠松を、やっぱり好きだと思った。好きだから、じゃあやっぱり別れるべきなのかもしれない。人生で経験することなど無いと思っていたそんな気持ちが、私に初めて芽生えた。

「……メールとか、邪魔しないから。だから、応援はしててもいい、かな」
「ああ、それは、うん」

ありがてぇよ、と照れくさそうに笑った笠松の前で、私は最後まで気持ちひとつ伝えられずに笑っていた。今まで話したこと、メールしたこと、電話したこと、言葉以外で伝えあったすべてのこと、楽しかったんだけどな。この半年、彼と過ごした時間に思いを馳せた。高校を卒業するまでこの時間が続くと思っていたけれど、彼の残りの時間はバスケに捧げられることになった。もしかしたら、もっと前から思っていたことなのかもしれない。最後のインターハイに気持ちを切り替えた、去年の夏から、とか。だとしたらそのあとに付き合い始めた私は、後だしじゃんけんで勝ったような立場に思えてくる。バスケットボールに一生懸命になりたかった時間の全てを、とは言わない。でも一割でも私に割いていたとしたら、今日こうなることは予想に容易いことだった。知らず知らずのうちに奪ってしまった彼の時間を、返す時が来たのかもしれない。







別れた後の男女関係で、これほど悩まされることになるとは、私は思いもよらなかった。クラスが違うとは言っても、同じ校舎、同じフロアで日々生活していれば幾度も顔を会わせる機会は巡ってきた。その大体は、移動教室の途中とか何か仕事を抱えた合間だったので、軽く会釈するくらいで事足りた。それは良かった。いいことだと思った。けれど、その中途半端さが私の気持ちの整理に繋がらなかった。いっそ、昨日の友は敵になってくれれば清々しいほどに諦められたのに、なぜか友のままなのである。笠松を通して知り合い、よい相談相手になってくれたバスケ部の森山くんも、私を見つけると話しかけてくれる。ここには元々友情以外の何者も存在していないからそれは良いんどけど、ことあるごとに笠松の話題を持ち出してくるのはいかがなものかと思う。これで未練なく断ち切れというのは無理な話だ。別に誰に頼まれているわけじゃないけど。なんというか、別れた後の暗黙の了解というか、常識というか、今までは気持ちが燻り続けることはあまり良いこととは思っていなかったので、私も早いところ切り替えようと思っていた。決意はしていた。でもこれといった切っ掛けに恵まれなかった。前にいった通り森山くんの話は続くし、笠松が他の女の子と仲良くでもしていれば、心のダメージで忘れたいと思ったかもしれない。けど彼が夢中になっているのはスポーツである。バスケをしている姿を見たところで、私の心は呑気にときめくだけであった。
嫌いになれないなら仕方ない。無理に嫌いにならなくてもいい。けどこのままでは、心が離れていけない。目下の私の悩みはそれに尽きた。フラれてもなお、一途に思い続ける。モデル出身の小綺麗な女の子がその思いを抱える映画だったら、がんばれがんばれ、と応援したかもしれないが、生憎それが自分だと思うと非常につまらなかった。報われないのにどうして抱え続けることができよう。でも捨てきれない。
部活を引退してからまた告ればいい、とアドバイスしてくれた友人もいた。ハッキリ嫌いと言われたわけじゃないんだから、案外まだ好きかもよ、なんて励ましてくれる友人もいた。けれど、じゃあどうして電話はともかくメールもしないで、なんて言われた。距離を置くとオブラートで何重も包んで別れたくせに、そういうところはバッサリ切られたのだから、どう考えても脈なんてない。脈がないのにアタックできるのは最初だけで、少なくとも私は一度フラれたあとになんて度胸がない。そこまで強心臓でもない。

「でもさ、部活を理由に彼女フるなんて笠松くんらしいよね」
「いかにも部活バカって感じだもんね」

私の傷心を余所に、友人たちが呑気にそんな話題を繰り広げる。どうしてか彼女たちは私の失恋に楽観的である。

「そしてフラれたっていうのに、応援にくる健気さ」
「泣けるわぁ」
「全然涙出てないし!笑ってんじゃん!」

たまたま練習試合を海常で行うと森山くんから聞かされ、息抜きに、と友人を誘って見にやって来た。今までは部活終わりにバスケ部の体育館に足を運んで、放課後の練習も見学に来ていたけど、最近は行かなくなった。当たり前だ。一緒に帰る必要がなくなったのだから。

「まぁまぁ、失恋によく効くのは次の恋だって言うじゃん」
「そんなすぐ切り替えられない……」
「この中からひとり選べば?バスケ部って結構イケメン多いし」
「そんな基準で選ぶか!」

やっぱりこうして見に来てしまうから心の整理がつかないままなんだろうか。完全シャットアウトの勢いでないと、いつまでもこうして生半可な気持ちを抱えたままなんだろうか。あの日からすでに半月経った。もう二週間、まだ十四日。どっちでもいい。あの日から私はイチミリも変わってない。まだ笠松を好きなままで、でも彼はもう私の隣にくることはない。女の子とまともに会話できないとか言ってたくせに、好きだと真っ直ぐ、強く伝えてくれた去年の秋。そんな直球勝負でこられると思ってなかったけど、よく考えたら、慣れてないからこそのあの言葉だったのだと、後々気付いた。じゃああの別れた時の、遠回しの、裏に色んな意味を含めたようなあの言葉はなに。私のためだ。私と付き合って、彼は変わった。不器用だった彼はいつの間にか言葉巧みに操るようになったのだ。私を傷つけないように。そんな配慮をするくらいなら、いっそ以前のようにストレートに言ってくれて、私のなかに何の気持ちも残らないような振り方をしてくれれば良かったのに。そう思うのは私の我が儘なのか。
私から奪っていった心を全部返して、元に戻してほしい。これは完全に私の独りよがりだった。まだ片思いだった頃、私は確かに彼に心奪われてはいたけれど、好きだと伝えられたあの時、私は彼に心をあげてしまったのだ。私も好きです、と言葉を添えて。







別れる前、私達は付き合っていたことを大っぴらに宣言していたような質ではなかった。私も笠松も打ち明けていたのはよく一緒にいる友達やクラスメイトだけで、だから、それ以外で知っているならば、それは風の噂で聞いたとか、私と笠松が二人一緒に行動しているところを見てなんとなく察したか、そのどちらかだ。事実、バスケ部の人たちにはなんとなくバレていて、練習終わりの笠松を体育館の近くで待っているとき、すれ違った下級生に何となく挨拶されたりしていた。「誰?」「ほら、笠松主将の……」とこそこそ話が聞こえたこともあった。それが、五月のある日を境にほとんど体育館に顔を出さなくなったのだから、多分気付く人は気付く。けどさすがに笠松本人に別れたんですか、なんて聞きに行く空気の読めない人間はいないだろうから、また憶測で事が広がっていく。その片鱗を垣間見たのが、黄瀬くんが私に話しかけてきたことだった。お昼休み、購買近くの自販機の前で出くわした私達は、こんにちは、と結構他人行儀に挨拶を交わした。運動部らしく先輩先どうぞ、と順を譲ってくれた黄瀬くんが、お金をいれる私の後ろで「久しぶりっすね」と世間話の切り口で会話を始めたので、私も無難に「そうだね」と言葉を返す。

「試合、この間来てくれてたんすよね。応援あざっした」
「あ、うん」

相変わらず黄瀬くん目当てでやってくる女の子は跡を断たない。そのギャラリーを隠れ蓑にできそう、と考えたからこそ私はこの間行ったのだけど、黄瀬くんが見つけていたということは、笠松も気付いていただろうか。終始目が合うことはなかったと思うけど、どこかで見られていたら嫌だなと思った。応援してもいいって言われたけど、あれはお世辞の一種だったのに、なんて視線は私には受け止められない。そんな臆病風を吹かせつつ、自分のお茶と友人に頼まれたジュースを下から取り出して黄瀬くんに次を譲った。そこで途切れるかと思われたテンプレな会話は、しかし黄瀬くんが言葉を続けたので終わらなかった。

「先輩はもう受験勉強とか、始めてるんすか?」
「うーんと……まぁ、そうだね。ぼちぼち進めてるかな」

今度は三年の私に相応しい話題ではあるが、前後の切り替わりに一貫性がなかったのではて、と首を傾げつつ答える。けれどその疑問はすぐに解決された。

「やっぱり、忙しいんすね?勉強とか、受験生って」
「うん?そうだね」
「最近先輩、体育館に見に来ないなーって思ってたんすけど……」
「あー……うん、勉強で忙しくて」
「……そっすよね、受験生っすもんね」

これぞ正しいオブラートの包み方。そんな正解例を見せられた気分になるくらい、黄瀬くんの聞きたいことはかなりの遠回しに私に伝わった。どうせなら笠松、黄瀬くんに女の子の振り方とか相談してから来てくれれば良かったのに。入学してまだ二ヶ月ほどだけど、既にたくさんの女の子が玉砕したと聞く。その内のひとつくらいは、私に似合うものがあったはずだ。

「これから、インターハイの予選とか始まるんだっけ?」
「そうっす」
「じゃ、頑張ってね」
「うっす」

正しい先輩と後輩の会話を折り畳んでから、自販機の前で別れる。黄瀬くんもなんとなく察してるってことは、一年生には広まってるのかなぁ、なんてぼんやりと考えた。フる、フラれるの二人の世界だったことが、どんどん周りに伝染して行く。そうして段々自分の立場が明確になっていく。私は今、笠松の元カノというポジションを獲得しつつあった。いらない、とっても欲しくない。そう文句を言うのは、あれから三週間ほど経とうとしている今ではなくて、話を切り出されたあの時、あのタイミングしかなかったことを悟っても、もう遅かった。







「武内先生なら先程部活に向かわれましたよ」

この言葉が私をどんなに落胆させたことか、面前の先生はまるでわかっていない笑顔で私を社会科教員室から放り出した。またタイミングを逃した。日直日誌を抱えながら、自分の悪運を呪う。あれ、悪運呪ったらさらに悪化するのだろうか、やっぱりやめておこう。
担任が休みのせいで副担任に日直日誌のサインを貰わなければならなかった。うちのクラスの副担任は、日本史担当の武内源太。これがないと朝早く登校しなければならない日直当番を明日もやらされる羽目になる。早起きなんてごめん被りたいので武内源太はなんとしてでも捕まえなければならない。だが先生は今部活に行かれてしまった。バスケ部の体育館に。ついこの間までよく見てた、キャプテンと監督が相談する姿を思い浮かべて足取りが重くなる。あの中に割って入るの嫌だな。笠松と顔合わせづらい。バスケ部の人たちに、別れた彼女がまた来てるよ、とか言われたら明日から学校行きたくなくなる。なんで私こんなにメンタル弱くなってるんだろう。恋愛って終わってもなお人を翻弄するのか。よく覚えておこう。

階を下って下駄箱まで戻り、ローファーを取り出して裏口に回った。バスケ部専用の体育館は出てすぐ脇にある。外用に靴を履き替えていると、バスケ部の青いジャージを着た集団が私の目の前を通りすぎた。のんびり歩く彼らを見て、まだ練習始まってないんだと安堵する。これなら笠松と顔を会わせずに武内先生を捕まえられるかもしれない。よし、と意気込んで体育館をこっそり覗く。中にはぱらぱらと生徒がいるだけで、肝心の一人はいなかった。ついでに笠松もいなかったから、残念なのかホッとしたのかよくわからないため息がこぼれた。

「……あの、先輩、ですよね?」
「わっ?!」

ホッと一息ついたはずの二酸化炭素を吸いかねない勢いで、私は息を飲んだ。驚いて振り返った先には知らない男子生徒がいて、恐れていたワードが頭のなかを駆け巡る。いいえ、私は通りすがりの三年生です、なんて言い訳を頭のなかで繰り返した。彼は口を開くと「笠松主将と別れたって、」と切り出す。ほらきた、きた。顔は知らないから多分、下級生。でもバスケ部らしく背が高いから嫌でも圧迫を感じる。しかも質問はダイレクト過ぎる。真っ直ぐ傷を抉るような聞き方をするなんて、どんな教育してるんだバスケ部。皆少しは黄瀬くんを見習え。

「黄瀬から聞いたんですけど、本当ですか」
「……えっと、」

黄瀬くんを見習うのは前言撤回。口の軽い人間が集まる集団になってしまう。ああでも、別に口止めした訳じゃないし仕方ないのかなぁと思った。今こうしてはっきりイエスと言わないように、あの時も言葉の下の下に隠すような言い方で答えた自分が悪いのだ。別れたなんて、元カノになっただなんて認めたくない意地を張った自分が。
返答に言い澱む私を肯定と捉えたのか、目の前の彼はやっぱり、とどこか得心した表情を浮かべた。そんなに噂を自分の目で耳で確かめたかったのだろうか。けど納得してくれた今、だったらもう話は終わりだろう、と解放カウントダウンに心が疼く。それじゃあ、とさよならをして、別の場所に武内先生を探しにいかねば。気を取り直してぎゅっと日直日誌を抱え直した時だった。意を決した瞳で、彼が私に「好きです」とハッキリ伝えてきたのは。

「キャプテンに会うために体育館に来る先輩を知ってから、ずっと気になってて」
「ちょ、ちょっと待っ」
「彼女だってわかってたから、ずっと諦めるつもりでいたんですけど。でも二人が別れたって聞いて、俺チャンスだと思って」

すぐに答えは聞きません、と前置きした上で、彼は私にはっきりこう言った。「でも、俺を見てください」と。適度な食い下がり方、普通の女の子だったら、誰のことも好きでなかった私なら、きっとドキドキしていたんだろうなと思う。でもその鼓動を刻む心は、既に私の元には無いのだ、残念ながら。奪われたまま、捧げたまま、私に返ることはない。私はまだ笠松が好きだったから。

「……お前、なにやってんの?」

だから、その本人が現れた途端、今まで死んでたのかってくらい鼓動が大きくなった。心臓の音が耳元で聞こえるようだった。少し怒ったような笠松の視線が真っ直ぐ私を射抜いている。その瞳は全くブレることがない。何やってんの、とは私に向けられた問いかけだったのだ。何て答えれば、と必死に頭を回転させる。今までこの人と話していた話題全てが、彼には聞かれたくないことで構成されていて、掻い摘む余地もない。残った選択肢は沈黙と逃げるの二つしかなくて、勿論最初は私も前者を選んだ。だけど、少しして笠松がにゅっと腕を伸ばしたかと思うと、日誌を抱える私の腕を掴み、「ちょっと来い」と怖い顔をしたので、私はすぐに後者を選び直したのだ。ばっと振り払った腕から、バサッと日誌が落ちたけど、拾うのも忘れて私は校舎へ駆け戻った。明日の日直当番がまた自分になったことに夜になってから気付いた。







日直当番の日には、三本ほど早い電車に乗って登校するのがベストだった。ホームに着いて、電光掲示板を確認する。今日は三本どころではない。それよりも何十分も早い電車が表示されている。眠れなかった。寝たは寝たけど、浅い眠りだったので、目覚ましの時間よりも早くに目が覚めて、今に至る。お母さんは早く娘が出てってご機嫌だったけど私はその真逆だ。降下の留まることを知らない。学校に着いて、下駄箱から上履きを出した、ローファーを仕舞おうとしたら指をはさんで痛かったけど、それを痛いと嘆くよりも気分はどん底だった。今一番ほしいもの、友人たちのあの明るいテンション。あの時はわからなかったけど、あれでも私を励ましてくれてたんだなと思ったら無性に恋しくなった。持つべきものは友である。階段を上りながら気持ちが落ちるという不思議な体験をしながら職員室に寄り、出席簿と日誌を受け取った。笠松が届けてくれたのかと思うと申し訳なくなった。それでも今は、彼にありがとうともごめんとも言えない。とにかく顔を会わせる勇気がないというのに、

「おう」
「…………!」

私の教室前で、笠松が扉に寄り掛かっていたいたのだから、悪運ここに極まり、である。やっぱりあの時一瞬でも呪ったのは間違いだったのか。

「おはよ」
「……お、はよう」
「話、あんだけど」

うん、と答える代わりに首を縦に降った。昨日私は逃げ出したのだから、彼に言いたいことがあって当然である。それを私が聞かなくてはいけないことも道理で、ぎこちないながらも私は教室に入って、自分の席に鞄を置いた。勝手知ったるように笠松がその前の席に座って、こちらを向く。自分の席に座りたくないと思ったのはこれが初めてだった。

「……お前、なんで別れたって聞かれて、否定しなかったんだよ」

結局、私が席につくのを待つことなく、笠松が言葉を切り出した。何を言われるんだろう、また彼が怒ってしまうんだろうか、と不安がぐるぐると渦巻いていたところに、笠松の言葉が届き、今度は疑問が割り込んできた。
なんで否定しなかったかって、聞かれた?

「な、何でって……別れたじゃん、私達」
「は?いつそんな話した?」
「え?」

戸惑いと困惑。私達にはお互いその感情しかないことはハッキリしていた。ぽかんとした間抜けな表情が笠松に浮かぶ。多分私も同じような顔をしていると思った。
いつそんな話をしたかって、まるで私が夢でも見ているかのような言い方で、でもしっかり自覚はある。この数週間散々悩み抜いてきた自分は嘘ではない。あの時笠松は確かにこう言ったのだ。

「笠松が、自分で距離おきたいって言ってきたんでしょ」
「それは、インハイに集中したいからって」
「だからそれが別れるって意味、じゃ……」
「いや、言葉通りに受けとれよ」

言葉通りに受けとる、その行為がとんでもなく難しいことに思えるほど、私の頭は混乱している。そこへざっくり端折った答えを笠松が出してきたので、私は余計戸惑う羽目になった。

「おい、言っとくけど別れた覚えなんかねーからな」
「……嘘!?」

勢い余ってバン、と机を叩いてしまった。大きな音に笠松も、私も驚いてお互い一瞬押し黙る。その沈黙の間、私のこの一ヶ月弱感じ続けていた重い心がどんどん泡になっていくような気がした。しゅわしゅわ、と弾け消えていく錯覚に瞬きを繰り返す。今驚くしか脳がない私を見て笠松がどんどん不満の色を露にしていくので、何か言い責められる前にと私は慌てて口を開いた。

「き、距離をおきたいって、恋人フるのときの決まり文句じゃん!」
「知るかんなの!」
「じゃ、じゃあ、何で電話もメールもしたくないって」
「お前とメールすると、すぐ声聞きたくなるし、電話したら会いたくなんだよバカ!」
「何で逆ギレ?!」

ガタン、と勢いよく立ち上がった笠松に驚いて、思わず後退りしてしまう。そこで生まれた沈黙は、ヒートした私達の脳回路を冷ますのにだいぶ役立ってくれた。笠松はまた席に座って、私は一歩元に戻って。というか、今、なんとなく流しちゃったけどすごく嬉しいこと言われたような。こっそり笠松を窺うと、やっぱりほんのり耳が赤くなってるから夢じゃなかったと確信する。嬉しさに胸がむずがゆくなっていたら、伸びた笠松の右手に、左手がぎゅっと捕えられた。流石に背の高いバスケ部と言えど、座ってしまえば彼が私を見上げる形になるのは必然だった。でも上向きの瞳は新鮮で少しドキッとする。

「……お前、ずっと別れたと思ってたのかよ?この一ヶ月?」
「えと、まぁ」
「あの話したときから?」
「う、うん」
「……てか、何で別れ話って思ってたのに反論しねーんだよ。嫌じゃなかったのかよ」
「嫌だったけど!驚きすぎてそれどころじゃなかった!」
「驚く前におかしいと思え!」
「思ったけど!笠松すごい真剣だったし、こんな嘘つかないと思ったし…バスケ選ぶんならしょうがないかなって、」
「アホか!」

がみがみ怒鳴られるとまるでバスケ部の後輩に叱っている姿を思い出してしまう。でも笠松が怒る度に、繋がった手にぎゅっと力を伝わってきてくすぐったいような気持ちになる。離れないのだと指の先から伝わる強さが心地よかった。
結局、誤解は私の勘違いが原因みたいだった。笠松は不格好にも真っ直ぐにしか言えない男だった。それは認める。でもアホの一言で片づけるのは私だって腑に落ちない。

「アホはひどい」
「じゃあ何だってんだよ」
「頑張って陰ながら応援しようしていた健気な私を、アホと言いますか」
「……そういや、練習試合、見に来てくれたな」
「そうだよ!」
「いつも終わったら話しかけにくるのに、あの日来なかったから変だなと思ったけど」

だからなのか、と今更納得してつまらなそうな顔をする笠松に一言「アホ」と悪態をついた。別れたと思い込み、電話やメールも拒否されていると考えていた私がどの面下げて元カレに会いに行くというのだ。まぁ、健気なんて言ってるけど、実際未練がましく応援に行っていただけの私も私だと思ったけど黙っておく。多分私はそういうタイプの女なのだ。ひとつ収穫のあった茶番劇だったな、と元サヤに戻った左手の証拠を見つめながら思った。

「私がこの一ヶ月、どんなに悩んだことか……」
「そんなにかよ」
「もう笠松が私の事どうでもよくなったのかなって思ってたくらいには」
「……お前のことは、めちゃくちゃ好きに決まってんだろ」

ぐっと力が込められて、左手から引っ張られた私の体が笠松の方へ傾いた。彼へ飛び込みそうになったところを、寸でのところで肩に手を着いて留まる。空いていた彼の左手が、私の腰を支えるように回って、その距離を保とうとしているのだと悟った。見つめた先の笠松の、少し不機嫌そうな眉がどうしようもなく大切に思えた距離だった。

「じゃなきゃ、あの時あんなにキレてねえよ」
「あの時?」
「お前が後輩に丸め込まれそうになってた昨日」
「……丸め込まれてないんだけど」
「今度会ったらガツンと断っとけよ、いいな」

私の反論も無視して仏頂面のままお説教のような言葉が飛ぶ。「俺も言ったし、多分向こうからはもう近づかねえだろうけど」と怖い顔のまま笠松が言うので、少し後輩に同情しそうになった。少なくともこの人がいる場所では会いませんようにと、明け方の星に願うばかりである。

「もし別れ話するときは、笠松もガツンと言ってね」
「はぁ?」
「お前の事めちゃくちゃ嫌いになったから、別れてくれって」

彼の愛の言葉をそっくりそのまま裏返した文句で私を振って欲しい。それを望むほど、さっきの言葉が実に真っ直ぐで嬉しくて仕方なかったのだ。その喜びが顔に浮かんで、話している内容とは真逆の笑顔がこぼれてしまう。決して冗談で言っていることではないんだけど。それをわかっているのかいないのか、笠松は不機嫌そうだった表情を一転して、余裕の表情で私を受け止めた。

「……そうだな。今度はお前が笑えねえように言ってやるわ」

不敵に持ち上がったその唇がいつか私をとことん傷つけるかもしれないのに、とんでもなく頼もしく、愛おしく感じたのは、心奪われている私には説明しがたい矛盾であった。



だから呼吸はへたくそなまま

20140731.
title by Rerun