数多の名が刻まれた慰霊碑の前で、私は立ち尽くしていた。
そのつややかな光沢に目を奪われ、思わず触れてみたくなる。でも実際に触るとひんやりとして冷たい。石碑なんだから当たり前なのだ。温もりの通わない塊。まるで役目を終えた人間のようだと思った。ああ、だからお墓には石を使うのだろうか。でもこれは同じように死者を弔うものであってもお墓ではない。刻まれた名前は一つではないし、この足元に遺骨も供えられてはいない。でも私はまるでお墓参りのように何度も足を運んでは、石碑に刻まれた名前を眺めては、やり場のない気持ちを胸に抱えたままでいる。
私はそっと目を閉じた。視界から一切の景色を消した真っ暗闇の中で、何を思えばいいのかわからないまま、無心の時を過ごそうとしていた、そんな時。



背後からの聞きなれた声に、私は反射的にぱちりと瞼を持ち上げた。振り返ると、こちらに近づきながら「よっ」と手を挙げ会釈する出水がいた。その表情には、少しだけ不機嫌そうな色が混じっている。出会ってからしばらく経つけれど、出水という男はこんなふうにあからさまに顔に気分を出すタイプではない。それもこんなマイナスな機嫌を。どちらかというとひょうひょうとしていて、ふざけていたりすることの方が多いから、寧ろ気分が読めないときだってある。けれど今日の出水はどう見ても機嫌を損ねていた。

「研究室まで行ったのにお前いないし、どこに行ったか誰も知らねえっつうから、探したんだけど」
「……なんかごめん」

私の傍までやってくると、出水は呆れたように顔をしかめながらそう苦言を呈した。どうやら私を探して時間を食ったことに顔色を悪くしているらしい。いつもはそんな短気じゃないはずなのに、今日はどうしたというのか、理由はわからなかったけれど、とりあえず謝っておいた。それから何か用だったかと尋ねたのだけど、「だから探してたんだってば、お前のこと」とムスッとした面持ちで言い返された。まるで、わかっていないお前が悪い、と暗に謗られているような気分になった。私何か悪いことをしたんだろうか、出水に。でも思い当たる節がない。だってそもそも、こうして顔を合わせること自体かなり久しぶりなのだ。というのも、アフトクラトルからの大規模な侵攻があったせいで、私を含めた本部基地の研究員は、ここ最近その後始末に追われていた。今回は、いつもの敵襲とは訳が違った。襲ってきたのはいつものようなロボットを模したネイバーだけでなく、人型のネイバーもいて、しかも街を蹂躙するだけでは飽き足らず本部にまで侵略の手を伸ばしてきた。派手に壊された本部の外面は、今じゃもとあったように上手く修復されているけれど、中身はそうもいかない。研究中だったデータやサンプルも、同じようにトリオンで直す、なんて上手い話があるわけがないのだ。研究所の中身は大抵バックアップがあるからゼロからの立て直しにはならないのが不幸中の幸いだけど、新しい研究環境にデータの移行だったり実験の再開だったりと、ただひたすらに面倒な作業が山積みなのである。ただでさえ戦闘後はボーダー隊員たちが得てきたデータ解析という大変な仕事があるというのに、今回は加えてそんな手間暇がかかっているせいで、三日三晩家に帰れない研究員なんてザラにいた。私もそのうちの一人だ。作業から手が離せず、近頃は仮眠室のベッドにお世話になる生活が続いている。

「ひでー顔だ」

だから、隈のひとつやふたつ顔に浮かんでいたっておかしくはないし、出水にこうも酷評されてしまうのも致し方ないことだった。もう面倒くさくなって顔には何の施し物もしていない。整えようと思えば、また、いつだって出来るのだ。ひでー顔を化粧で隠すことだってなんだって、この忙しさを乗り切ればまた、なんとかなる。壊された建物をトリオンで直すように、失われたデータをバックアップから取り戻すように、手を加えれば、時間が経てば、元に戻る。
でも、どうにもならないものもあった。一度この石碑に刻まれた名前は、二度と消えないのだ。

「……で、ほんとに何の用?この『ひでー顔』見に来ただけなの」
「まぁそんなとこ。お前ちゃんと生きてっかなーって」
「ヒマなの?」
「かもな」

私が生きてるか、なんて出水はとっくに知っている。顔を合わせたのは確かに数日振りのことだけど、それ以前に電話で既に言葉を交わしていたのだから。あの時電話口から聞こえてきた声は、どこか焦ったようなもので、それが出水にしては珍しいものだったから、よく覚えている。着信があったのはあの日、本部基地にまで敵が押し入ってきた日で、つまり本部にいた私が無事かどうかを心配して連絡を寄越してくれたのだ。
私も運が良かったと思う。あの日、本部に攻めてきた人型ネイバーによって殺された人間もいた。建物が壊れた際の瓦礫の下敷きになって、大けがを負った人も何人かいた。私は飛んできた硝子の破片で切り傷を作っただけで済んだ。もうすっかりかさぶたになって、今じゃ痒さに悩まされる、そんな些細なケガで事なきを得た。運よく生き残った方の人間なのだ。
なのに、私は生きた心地がしなかった。ご飯を食べていても仕事をしていても、顔を冷たい水で洗っても、どこかぼうっとして、あの日のことを思い出してしまう。

「……お前の知り合い、いんの?」

この中に、と出水が指したのは、慰霊碑の中でもまだ刻まれて間もない方、つまり先の侵攻で犠牲となった人たちの名前だった。その問いに、私は静かに頷いた。

「少し話したことのある人がいる」

友人というには拙い、だけど赤の他人とは切り離せない人の名前が幾つかそこに刻まれた。それがこんなにも胸にのしかかるように感じるのは、どうしてなのだろう。答えがわかっているようで、わかりたくないような、そんなもやもやとした気持ちを私は抱えていた。どこに持っていけばいいのかもわからなくて、ふと気がつくと、私はここへ立ち寄っているのだ。休憩の合間とか、あまり食欲が湧かないときとか、ここにきても何が解決するわけでもないというのに足を運んでいる。

「──バカな話なんだけど。今まで散々研究して、扱ってきたトリオンが、トリガーが、いつか自分を殺すかもしれないってこと、今までこれっぽっちも考えたことなかった」

もっと正確に言うと、考えたことがなかったわけではなく、本当の意味をわかっていなかった、のだ。戦いの刃を研いで、戦闘員にその剣を手渡すだけの、商売人だと思っていたのだ。そんなはずなかった。私も刃を研いだ時点で、立派な戦闘員の一員だたったというのに。数字とデータばかりが相手だと思い込んで、その向こうにいる敵の姿さえきちんと把握できていなかった。
それがいざ目の前に現れてようやく理解した。自分でも現金だと思う。現れたのは今までと同じネイバーで、街を侵攻しようとする、排除しなければならない敵であるのは今までと何ら変わりはないのに、それが生気の感じられないロボットのような形から人型に変わっただけで、嫌な汗が背中を伝った。殺意が向けられたとき、自分がやっているのは生死をかけた戦争なのだということに、嫌でも気付かされた。数字なんか相手にしているうちは到底気づけっこない恐怖の瞬間だった。
あの日、私たちの仲間が殺されたように、いつか私たちが誰かを殺すのかもしれない。もしかしたら、もう殺していたのかもしれない。そう考えただけでも恐ろしくなったのに、私にはその自覚がまるでなかったということも加えなければならないのだから、本当に、生きた心地がしなかった。

「じゃあ、ボーダーやめんの」

何もかもを飛び越えて、出水の言葉は私の胸を突く。いつもそうだ。ふざけているような体をして、見抜くところはしっかり的得ているのだから、敵わない。

「さっきおまえのラボ覗いてきたけど、復旧されてしばらく経って、他の奴らはもう資料とか色々で机が溢れかえってるっていうのに、なんかおまえのデスク周りだけ、すげーきれいなままだった」
「……」
「この間電話したときだって、言ってることと声のトーン真逆」

出水が、私と到底似つかない低い声で「全然大丈夫、大丈夫」と言った。おそらく私の真似。あのとき確かにそんなことを言ったような気がする。だって電話口の出水には、無事か、って聞かれたから。

「ひでー顔して、ひでー声で、なぁにが大丈夫だよ」
「あの時はメンタルの話なんかしてなかったでしょ」
「おれは全部ひっくるめて聞いたの」

いけしゃあしゃあと私の言い分を蹴散らしていくくせに、出水の表情にも覇気はない。声や表情で、何か悩んでいるとか、思い詰めているとか、表面上は察することができても、その中身までは人間誰しもわからないものだ。それこそ、そういうサイドエフェクトでもないかぎり、出水は私がどうして心が晴れないままなのかを知るよしもない。だから子細まで掴めない出水はこうも仏頂面なのだ。彼は知りたがっている。だからここまで、わざわざ顔を見に来てくれた。きっと、私を心配して。そういう出水には、心の中に巣くう憂鬱を話してしまえるような気がした。それを受け止めてくれるんじゃないか、と思わせてくれた。

「……怖くなった」
「死ぬのが?」

出水の発した端的な言葉に、一度は首を横に振ろうとした。死ぬことだけじゃない、他にもいろんなことが怖くなったのだと否定しようとした。けれど、もし順位があるとしたら、と考えてみたら、言葉に詰まってしまった。とても仲の良い誰かが死ぬかもしれないこと、自分の行ってきたことが誰かの命を奪っているかもしれないこと、その代償がいつか自分に降りかかってくるかもしれないこと。どれが一番か、なんて酷な考えだ。だけど私はその答えをなんとなく知っている。いつかこの石碑に自分の名前が刻まれてしまう未来が怖くて仕方ないのだ。だから確認するように、自分の名前がここにないことを確認して、少しでも生きた心地を取り戻したかった。そうでもしなければ私は、綺麗な机を汚す勇気が持てないままなのだ。



出水に呼ばれて落ちかけていた顔を持ち上げると、視界には、なんとも不満そうな表情の彼がいた。ここへ来た時と同じ、すこし機嫌の悪そうな出水。くよくよ悩むなって怒られてしまうかな、と彼の次の言葉を待ちながらそんなことを思った。けれど、予想は大きく外れた。
ぽん、と私の頭の上に彼の手が乗った。それからぐしゃぐしゃっと容赦なく髪をかき混ぜられた。今更身だしなみがどうとも思わないけれど、突然のことに「わっ!?」と驚きの声がこぼれてしまう。何がしたいのだろう、と出水を見返すと、彼はまだ険しい顔、それでもどこか同情を寄せるような瞳で私を見ていた。

「じゃあ、怖いなら、俺が守ってやる」

その言葉だけは、まっすぐに真剣に私に告げられた。いつもならきっと冗談か何かだと笑いそうになるその言葉が、今日に限っては、この一瞬においては、どこかのドラマの俳優のセリフよりも板についていた。

「──ほら、俺A級1位の太刀川隊だし」

でもそれからすぐに、出水はふっと肩の力を抜くように、いつもの彼らしい口調でそう付け足した。軽口を混ぜ返して、私が話しやすいようにしたのかもしれない。

「……ボーダーが守るのはこの街の平和、じゃなかったっけ?」

いつもテレビで見かける嵐山隊の宣伝文句を、私は思い出すようにしながら口に出した。まあな、と出水は大したことでもないように同意する。A級1位っていうすごい立場にいて、その手で守るものは数え切れないくらいたくさんあるのに、出水はその荷をまるで感じさせないようなたくましさを持っていた。

「けど、お前もこの街にいれば守ってやれるだろ」

この街にいる、大勢のなかのたったひとつ。私の存在を勘定に入れることなんて取るに足らないことで、彼の肩に負う荷の重さに何の影響も及ぼさないことなんだろう。だからきっと、こんな軽々しく言えるのだ。こんな軽々しく、なんでもないように、さらりと、私がそれに頷いてしまうことを誘うように。

「だから、俺の目の届くところにいろよ」

死の恐怖と突然隣り合わせになったような出来事に、恐怖を覚えた。怖くて、私はどこか生きた心地がしなかった。少しずつ街が活気を取り戻しつつあって、ボーダーの中も以前の景色がよみがえりつつある中で、私がもう一度求めていたのは、この出水の言葉だったのかもしれない。拠り所にさせてくれるような安心を欲しがっていたのかもしれない。なにもかもを見抜いたように、私に欲しい言葉をくれる出水の傍にいること。いても良いと招いてくれること。この自分の瞳に、彼の姿を捕えられる距離でいること。あったかい出水の手が、私の頭を撫でてくれる距離で生きていくことを、私は望んでいたのかもしれない。

何度だって温もりを思い出せる場所に

2015,7,12