岩ちゃん、と私が呼ぶと彼はすごく怖い顔をして私を振り返る。なんだ、とそのままの表情で尋ねるのだけど、彼は決まって「つか岩ちゃん言うな」と否定に入るのだ。
可愛いからいいじゃん、と私は言い返すのだけどそう言うとやっぱりお決まりのように「ふざけんな」とか「気持ち悪い」とか、しかめっ面でそう反論する。彼曰く、腐れ縁であるチームメイトの及川くんがそう呼んでいるので、私が岩ちゃんと呼ぶと及川くんを連想してしまうのだそう。それがどうして「気持ち悪い」に繋がるのかは少々理解に苦しむが、まぁ、やめてくれと言われてしまえばもう呼べない。その日は。
だから何日かに一度、彼を岩ちゃんと呼ぶことに留めた。だって、一度ならずとも何度も伝えたけれど、岩ちゃんっていう呼び方がすごく可愛いんだもん。これを考えた及川くん、天才。
岩泉一という人は優しい顔をしてるわけでもないし、普段から言葉遣い荒いところもあるし、というかそもそも岩泉っていう名字からして少し厳つい雰囲気もあるし、そう簡単に「ちゃん」付けで呼べるような存在ではない。まぁそもそも男の子相手に「ちゃん」付けするのもどうなんだという議論も生まれるかもしれないけれど、彼を知れば知るほど岩ちゃん、というあだ名がしっくりきて、尚且つ私も呼びたくなってしまうのです。

「……全然理由になってねえよ」
「え?だめ?」
「だめに決まってんだろ」
「及川くんは良いのに?」
「許可した覚えはねぇ。勝手に呼んでるだけだし」
「じゃあ私も勝手に───ふぐゅっ」

呼ぶね、と言いかけた私の口をにゅっと容赦なくタコ扱いすると、「お前は別だろーが」と、険しい表情で睨む。身長差で少し見下されるような構図になったけど、これにも慣れっこなのでどうとも思わない。怯むものかと言い返した。

「贔屓は良くないよ、及川くんばっかりずるい」
「贔屓じゃねえ、区別だ」
「何の?」
「及川はダチだけど、お前は違う」

それでも不意に近付いてくる彼の唇にはまだ抵抗があって、大きな音をたてる心臓につられて思わず目を瞑ってしまう。その行く末を見守ることなんて出来やしなくて、だから与えられる一瞬の温もりまでの間、私は加速する鼓動に負けないように必死になる。

「何が悲しくてお前に可愛いとか思われなきゃなんねーの」

ちゅ、っとほんの少し触れられた唇のすぐそばで、空気が揺れる。彼の話し声が間近で聞こえる。まだ目を開けられない。きっと開いたら、すぐ近くに彼の顔があって、それにドキドキして押し潰されちゃうだろうから。
案の定、ニ度目のキスがやってきて、それからようやく彼の気配が間近から消えた。恐る恐る瞼を持ち上げると、厳しい剣幕だった先程とは変わって、彼はどこか不満そうに口を尖らせていた。

「男はかっこいいって方が良いに決まってんだろ」
「普段はかっこいいって思ってるよ、でも100回に1回くらい、可愛いなぁって。よくあることじゃん」
「お前のことは100回中、100回可愛いと思うけど」
「えっ」
「なに」
「いいい、いいよ、そういうお世辞は」
「……お前はアホなのか?鈍いのか?何なんだ?」

矢継ぎ早に飛んでくる呆れたような言葉の数々に私はたじたじで、何とも反論できずにいた。アホってひどい、ていうか別に鈍くなんてないし、何なんだって、岩泉一くんの彼女ですが。なんて心の中で考えたけれど、喉元より上っては来ない。代わりに「な、何でしょうね」なんて頼りない言葉がこぼれた。

「わかった。バカなんだな」
「ちょ、ちょっと、彼女に向かってバカって!」
「……わかってんじゃねえか」
「へ、」

当たり、らしい答えに満足したのか、彼はほんの少し口角を緩ませると「お世辞じゃねえよ、彼女さん」とまた私を持ち上げた。そのしたり顔が、私の鼓動を速まらせるには十分だったので、もう岩ちゃん、なんて言えなかった。だって格好良く思えてしまったから。


恋をこじらせただけ

19th,May,2013
title by tiptope