席替えをする前の席でのこと。とある女子の声が、俺の読んでいた漫画を覗き込んで、「あ、風早くん」と中の人物を言い当てた。カバーは掛けてあったからタイトルは見えないはずの漫画の登場人物を言い当てたから、俺は面白くなって声の主の方へと振り向いた。ロッカーから次の時間の教材を取り出してきたのか、彼女は胸にいくつかのテキストやワークを抱えて俺の机の脇に立っていた。
「お前も読んでんの?」
「うん、だって面白いじゃん」
 いつだって漫画なんて読む理由は単純だった。楽しいから、続きが気になるから、それだけだ。別に漫画家になろうってわけでもないから、そこから何か勉強しようというつもりもない。息抜きみたいな理由で読んでる俺と同じように軽く答えたそいつは、という。二年の時は亮介と同じクラスだったらしく、奴と話している姿は時折見かけていたから、名前と顔は知ってた。ただ、席替えをして彼女と隣になったはいいが特に会話をもたないまま数週間が過ぎていて、まともに話したのはこの時が初めてだった。というか、クラスメイトと漫画の話になったのは久しぶりだった。大体少女漫画を読んでるなんて言えば男共には笑われるもんだから、寮で読むようにしていたが、ようやく手に入った新刊に待ちきれず学校まで持ち込んでいた。その日は、本当に偶々の機会だった。
 俺の開いたページでが名指ししたその男子は爽やかな好青年で、全国の女子のうちの九割がかっこいいと賛辞を送るであろう屈指のイケメン。も例外でなく「風早くんかっこいいしねー」とその表情を柔らかくしていたが、次の瞬間、ふと真顔に戻った。
「ん、ん?あれ、それ新しいやつ?」
「おー、この間出たやつ」
「道理で!見たことないなと思った!買ってない!」
 は慌てて見ていたページから背けるように顔をあげた。どうやら彼女は、いつも本屋に行って新刊コーナーに山積みされているのを見て新しい発刊に気付くタイプらしい。最近本屋に行けてなくて、と愚痴る彼女は自分の席にすとん、と腰を下ろす。目に見えて肩を落としていたから慰め代わりに「次読むか?」と自分のそれを差し出すも、「買い揃えたいからいいや。ありがと」とやんわり断られた。
「新しいのどう?面白い?」
「おう、めっちゃイイトコ。盛り上がってる」
「うわー!早く読みたい!」
 そう話した翌々日くらいに、は無事新刊を手にして登校してきた。読んだ後の第一声が「かっこよかったー!」だったから多分こいつも世の女子と変わらず風早にベタ惚れだ。俺もいいやつだと思う、アイツ野球やってた奴だし。そう言ったら、「基準そこなの?伊佐敷って面白いね」と笑われたんだったか。
 それから一か月くらい後に席替えをして、今度はが俺の前の席になった。それが今の席。少し窓寄りの列で、結構日差しが当たる。午後の授業は睡魔と必死に戦う自分が想像できた。それでも後ろの方だから教師の目につきにくいし、内職はしやすくて助かる。
 初めはまあ良い方だな、くらいにしか思っていなかった自分の席にたどり着いて、机の上にロッカーから引っ張り出してきた一時間目の資料と鞄をどさりと乗っける。今日は気持ちいいくらいの青空で、朝練も捗った。教室のカーテンはいつから開いていたのか、俺の机はかなり陽を浴びて温かくなっていた。加えて一時間目は呪文のような古典だ。起きていろという方が拷問だ。
 前の席のはまだ来ていなかった。朝練か、ただの寝坊か、どっちだ。案の定教師が前扉から入ってくるのとほぼ同時に、が後ろ扉から登校してきた。そそくさと席につくと、彼女は肩で大きく息をして遅刻にならなかったことを安堵していた。俺はその背中にからかい半分で話し掛ける。
「よぉ、遅ぇじゃん」
「間に合ったからいいの。セーフ、セーフ」
 の言う通り、担任はざっと教室内を見渡して欠席者や遅刻者がいないことを視認して、出席簿にそれを書き込んでいた。アウトだったら名前が呼ばれているはずだ。
 急いで走ってきたのか、はあついあついと言いながら、鞄から引っ張り出したノートで顔を扇いでいた。その背中に「なんで遅れたんだ?」とホームルームの暇潰しに尋ねてみると、はノートを動かす手を止め、体を半身翻した。しかし何故か彼女の顔はどこか答えにくそうにしている。
「寝坊か」
「違う。ちゃんと普通に起きた」
「じゃなんでギリギリだったんだよ」
「……今日朝から暑かったでしょ?」
「まあな」
「だから髪、まとめて行こうと思ったんだけど。思ったよりうまく出来なくて」
 少し罰が悪そうに首元を抑えながらそう話すので、俺もつられて視線を送る。「色々やってたら時間なくなって、結局ただのポニテだけど」と悔しがる彼女の言う通り、ポニーテールから落っこちた後れ毛が首元に残っていた。そういやこいつそんなに髪も長くないし、まだひとつにまとめるには長さが足りないんだろう。
「マジだ。下の方ボロボロじゃん」
「うっさいなー!あんま見ないで!」
「無茶言うな、俺後ろの席」
「あーもう、遅刻してでもやって来れば良かった……」
 見られたくないからか、うなじを両手で覆うと恨みがましく俺を睨んでくる。でもそこに迫力もなにもないので、怯まず見返す。
「俺やってやろうか?」
「やだ。伊佐敷ってなんか雑そう」
「そうでもねえぞ」
「どうだかぁ」
 はクスクスと笑いながら体を前に向けた。まだ髪を撫で付けたりなんだりして、最後の抵抗みたいなことをしていた。「無理無理」と小さく呟くと、が振り返ることなくシッシッ、と手で追い払う仕草を送ってきた。聞こえてたか。
 うちのクラスの担任は国語教科の教師だから、短い朝のホームルームを終えてそのまま授業に入ろうとしていた。受験だから、なんつって最近授業が始まるのが早かったり、終わるのが少し延びたりしてる。三年になった途端そういうのが始まって、嫌でも受験が頭に居座っている。それでも避けて通れないのはわかっているので、仕方なくノートを開く。パラパラと新しいページを探して捲っていると、ふと甘いの香りが目の前を過った。つられて視線を持ち上げると、昨日までは見えていなかったのスッキリとした首元が視界に飛び込んでくる。もう一度答えを求めてすん、と辺りを探ると、やはりとても近くから香るフルーツのなにか。ああ、これはアレだ――桃、だ。こいつの香水とか、そんなもんか。髪もいじって香りもつけて、女って大変だなと他人事に思う。
 日に焼けていない彼女の白い肌と、時折微かに届く桃の香りは、それからしばらく続いていた。それを後ろからぼんやりと堪能するのが俺の密かな楽しみだった。普通に授業を受けていれば嫌でも視界に入ってくるのが、たまにが居眠りなんかをしているとさくっと消えてわかりやすい。お陰で俺は板書とこいつの一挙一動を追いかけるのに忙しくなった。全く、楽しい多忙だったけど。
「今日は上げてねえ」
 それがある日真っ黒になっていたのだから、驚く。
「え?」
「……髪」
 の白いうなじは、彼女の真っ黒な髪に隠されていた。肩にかかるほどの長さは、ちょうど良いところを覆い隠してくれている。余計なことを、と少し思った。けれどは指摘されたことに気付くと、その顔に得意気な笑みを浮かべて理由を教えてくれた。
「今日はちょっと時間あったから、朝シャンしてきた。だから、さらさらだから、結ぶのなんか勿体なくて」
 へへ、と自慢してる癖に照れくさそうに笑う。それが何だか可愛いと思った俺は、思わずの髪に手を伸ばしていた。
「うお、マジだ。さらさら」
「でしょでしょ」
 髪と髪の間を指が通り抜ける、その感覚はいつもの自分のものとは別次元で、バカみたいに単語ひとつの感想しか出てこなくなる。すげえ、とかやばい、とか。よくテレビで見かける女性用のシャンプーやリンスのCMで、たかが頭を洗うだけでそんな大袈裟だろって突っ込みたくなるような宣伝文句が並んでいるのをふと思い出したが、アレもあながち嘘じゃなかったんだな。そんなことに感心していると、それまで大人しく髪をすかれていたが、俺が触っているのとは反対方向の髪を一房掬うように手にとって、その髪先をじっと見つめながら、「参考までに聞きたいんだけど」とぽつりと呟いた。
「伊佐敷は、どんな髪型の女の子が可愛いと思う?」
「髪型?」
「そう。ショートとか、ロングとかでもいいし、結んでるのとか、おろしてるのがいいとかさ」
 例えとして挙げてくれたのであろうのその4つの選択肢は、かろうじて俺の理解の中に存在している最低ラインだった。きっと彼女はその例以外の、何か具体的なヘアスタイルの名前が挙がることを期待していたんだろうが、生憎とパッと思い浮かぶものはなかった。いや、浮かんだことには浮かんだ。近頃嫌でも視界に飛び込んでくる前の席の女の髪型だ。遅刻しそうだったからと慌てて後ろにひとつ結んであるとき、耳のそばでリボンのような飾りのついたゴムで結んであるとき、女友達に遊ばれたとかで、三つ編みにまとめられていたとき、今日のような何一つ装飾のないまっさらな黒髪をのとき。それらをどれかひとつに絞れと言われると、これはまた難しい問題である。
「どれも似合ってたけどなー……」
「似合って?今なんて?」
 聞き取れなかった言葉を追うように、の視線がこちらへ向いたところで俺はハッと我に返った。
「あっちげ、似合って──似合ってりゃ、なんでもいいんじゃねえの、って」
 あぶねー、こいつの髪型の話じゃねえよな、好みの話だよな、あぶねー。こいつのことじゃねえ。馬鹿じゃねえの。なに焦ってんだ俺、馬鹿じゃねえの。なに言おうとしてんだ俺は。咄嗟に、誤魔化すように手離したの髪が、ふわりと揺れてアイツの肩のところに落ち着く。それからまた揺れるように動いて、半身だけこちらに向いていたの身体が、本格的に後ろへと、俺の方と向き直った。
「あはは、なにそれお手本みたいな答え方」
「……笑うな」
「マンガの読みすぎじゃないの?」
「うっせ」
「他になんかある?漫画みたいな答え」
「知るか……ていうか言わねーっての!」
 そう、俺は言わない。柄じゃないのはわかってるし、大体そういうのは紙の上だけで十分だ。もしイケメン野郎と同じ台詞を言うときがくるとしたら、多分それは好きだと気持ちを伝える、その一言だけだ。
 いつか俺、こいつに言うのかな。そんな考えが最近、だんだん現実味を帯びてきた。艶やかな黒髪が俺を誘惑するように再び揺れる。それに目を奪われることが格段に多くなったことを、俺は自覚していた。

 朝からの退屈な授業が詰まった一日の合間のわずかな休み時間に、のんびり居眠りでもしていたいと思う俺の心を汲み取ろうともせず、バシバシと頭を叩いてくる奴がいた。痛さへと妨害への苛立ちに誰だ、とガンとばしながら顔を上げると、いの一番に目に入ったのは分厚い冊子。それから、その向こうで冊子を手にしている人物の顔。前の席に座るだ。
「日直日誌、書かないと部活行けませんよー」
 ずずいっと目の前に日誌を差し出され、眠るどころではなくなった俺は仕方なしに体を起こしてそれを受け取る。確かに今日の俺には相応しい一冊である。黒板の端にその名前が書かれている通り、今日の当番は俺だ。うちのクラスの日直は一人制で、日誌を書くことも、毎授業ごとに黒板を消すことも、時折教師に面倒事を頼まれることも、全て日直が一人で引き受けなければならない。厄介な仕事である。
「どうせ今日一回も日誌開いてないでしょ」
「よくわかったなお前」
「教卓に置きっぱになってたからね、ハイ書く」
「うげ」
 どうりで見当たらないと思った。無いから書かなくてもいいかと思ってたものが、突きつけられて受け取ってしまえば逃げ場がなくなる。いやそもそもばっくれるのもおかしいもんなんだけど。
「てかなんでお前が?」
「何でか先生に頼まれた。ちゃんとやり遂げるように監視しろって。じゃないと明日また連帯責任で日直やらせるぞって脅された」
「へえ」
「へえ、じゃなくて書く!」
「へーへー」
 まだ真っ白なままのページを開いて仕方なしにペンを握る。前に座るが怖いくらいに睨んでくるからまたのんびり昼寝を、という選択肢を選べそうになかったからだ。
 さて、今日の日付、天気……晴れてんだか雲ってんだか微妙だな。朝練のときは結構日が出てたけど今曇ってきてる。もしかして今日はこれから雨降ったりすんのか。
「なぁ、今日雨?」
「はぁ?どこに目ついてんの?どー見てもいま雨降ってない」
「ちげーよ、これから降るのかって」
「ああ、そういえば夕方から雨かもだって」
「げっ、練習できねえじゃん」
 だりーなぁ、屋内練かよ。晴れ、のち曇り、のち降る、と書き込む。今日の担当者のところには自分の名前、その隣の欄、遅刻と欠席はナシと。
「へー、担任来てから教室飛び込んできた伊佐敷くんは遅刻じゃないんだ」
「うっせー!セーフだセーフ!」
 ちゃんと書くまで見張る、なんて怖い顔してこちらを眺めてきていた威圧はどこへやら、は今やどこか楽しそうに俺の手元を眺めてはそんな風に茶々を入れてきはじめた。そんなちょっかいのせいで日誌が埋まるのもだいぶスローペースである。悪いのはもちろん「伊佐敷って画数すごいあるね、書くの面倒くさそう」とかどうでもいいことを言ってくるこいつなんだけど、それに逐一反論してしまう俺も俺だと思う。けどそういうやりとりと時間が、嫌いじゃないからなんとも言えない。
「お二人さんちょっと失礼。、お客さん来てるよ」
「お客さん?」
 お互いの名字の画数がどうのこうのという話題で話がかなり日誌から脱線していたころ、水を差すように俺たちの机に亮介がやって来た。の肩をとんとん、と叩いて彼女の視線を扉の方へと誘導する。
「あ、ほんとだ。小湊ありがと」
 そこにいる人物に何か合点がいったのか、はばたばたと慌ただしく席を立ち、その中でも亮介に一言加えることは忘れずに、教室の扉の方へと駆けていった。その背中を追ってたどり着いた俺の視界にも目当ての輩が現れる。あれは確か男子バドミントン部の部長だ。とは同じ体育館を使用する部活の人間同士、体育館の割り振りや何やらでよくうちのクラスに顔を出している。
「純、そんな怖い顔して睨まなくても。あの二人別に付き合ってないでしょ」
「うるせー。そんなこと気にしてねえ」
「へえ、案外余裕あるんだね」
「そういんじゃねえ、……っていうかなんでお前そこ座ってんだよ」
 が呼ばれていることを伝えるだけならもう、役目は果たしたのだから、さっさと自分の席に戻ればいいものを、亮介はなんでもない顔をして前の席、つまりの席に落ち着いて、呑気に俺に「日誌の続き書けば?」とか言ってきた。言われなくとも書いてやるよと、どうしてかやけくそな気持ちでペンを握り直して授業内容の欄に向き直るも、1時間目の古典、なにをやったか覚えていない。ナントカ物語の和訳をひたすら板書してたことは覚えてんだけど、まあいい、飛ばす。次の体育はわかる。今日の男子はバスケだった。女子はわからない。校庭でなんかやってたらしいけど。終わって教室に戻ってきたら、外で体育だった女子がちょっと遅れてやって来たんだった。が慌ただしく前の席に帰ってきて、今朝は下ろしてた髪がひとつにまとめられてて、それがちょっと残念だったなんて思ったことを、ついでに思い出した。似合うならなんでもいいとは言ったが、やっぱり下ろしてる方が俺は好きなのかもしれない。男子はバスケ、と書き終えてそんなことを振り返ってると、亮介が「女子のとこも書いとかないと」と笑ってくる。知るか、と一蹴して、3時間目の英語に移る。さすがにここはわかる。なんたって今さっきまで受けてた内容だ。最初に少し小テストをして、そのあのテキストの和訳を当てられた。予習してなかったけど、授業前にアイツが教えてくれたからかろうじて答えられた。感謝してる。よし。今日終わったのはまだここまで。これから4時限目、そして午後の授業と続くわけだけど、そこらへんはまだいいだろうし、その下の「クラスの連絡事項」「今日の反省」はもっと書けやしない。ていうかこの項目、白紙でいいんじゃねえかといつも思う。めんどくせえ。よし終わり、とペンを放りだせば「穴だらけ」と亮介に笑われた。
「いんだよ、こんなの適当で」
「よくない、ちゃんと書いてよ」
「どわっ?!?」
「なに驚いてんの」
「純リアクション面白すぎ」
 口から心臓が飛び出なかっただけマシというものだ。聞こえるはずがないの声がすぐ後ろから、それも背中に掛けられたものならまだしも聞こえたのは耳のすぐ近くだったのに、これに意図したリアクションなど取れるものか。
 俺の机を覗き込むように屈めば誰だってそんな体勢にはなるだろうけど、お前はなるなよ、俺の寿命が縮むから、なんて文句を言えるわけもなく。あっさりと戻ってきたが俺の机の脇にしゃがみこんで(彼女の席は亮介が座っているわけだけど、残り少ない休み時間のせいかそれをとりたてて追い出そうともしなかった)日誌の出来映えを確認しているその頭頂部に、恨みがましい視線を送ることしかできなかった。そんな俺の心情を知ってか知らずか、亮介が空白のまま俺が投げ出した日誌の体育の欄を指して「ほら、教えてもらえば?」と余計なことを促してくる。別にいらねえ、と答えようとした矢先。
「ああ、体育?女子の体育はね、今日はソフトボールやったよ」
 横からにょきっと伸びてきたか細い腕が、俺のペンをさっと手にすると、すらすらと文字を連ねていく。がさつじゃない、丁寧な、俺とは違う字体。綺麗な字を書くんだな、と俺はそのとき初めて知ったことに小さな感動を覚え、つかの間、ぼんやりと動くの手元を眺めていた。その間にも亮介との会話はトントン拍子に進んでいく。
はどこ守ってたの?」
「ピッチャー」
「へえ、すごいじゃん」
「すごくないよ、ジャンケンで負けただけ」
「ジャンケン?」
「ほら、ピッチャーって投げた球が打ち返されたら目の前飛んでくるじゃん。それが怖くてみんなやりたがらなくて」
 と、そこまで語ったがペンを置いた。つられて俺がを見ると、彼女は「ただ余り物が回ってきただけだよ」と力なく笑う。そりゃ災難だったな、なんて普通なら声を掛けるのかもしれないが、ちょっと待て。なんだピッチャーが余り物って。
「おっまえなぁ!ピッチャーってのはな、野球の華なんだぞ?!それをジャンケンで負けたからって……」
「え?そうなの?」
「お前は!ピッチャーをなんだと思ってんだ!」
「伊佐敷ってもしかしてピッチャーなの?」
「純は昔ピッチャーやってたんだよ。ノーコンだからコンバートされたけどね」
「っるせーな!」
「ノーコン?」
「ノー・コントロール、簡単に言うと下手くそってことだよ」
「なるほど、伊佐敷下手くそだったんだ、ボール投げんの」
「うっせぇ!お前よかマシだ!」
「素人と比べるの大人げないよ」
 亮介が俺にそう言って冷やかに笑ったのと同じ頃、貴重な昼休みに終わりを告げる鐘が鳴った。俺が怒っていることをものともせず「じゃ、椅子ありがとう」「いえいえ」なんてテンプレみたいな会話をして、亮介は去り、は自分の席へと落ち着く。がやがやと他の教室などから戻ってくる奴らの騒がしさがあたりに散らばる中で、前の席に座って鞄の中から教科書やノートなどを出そうとしているは当たり前だけど、黙ってしまっている。そこに感じる物足りなさは、きっとピッチャーをよく理解されずに終わったせいだ。俺はそう結論づけて、次の時間の準備も後にして、誰とは言わずに話しかけた。
「ピッチャーてのはなぁ、グラウンドのど真ん中で球投げんだよ」
 取り出した荷物を片手にキープしながら、はまだ何かを探すように鞄の中をまさぐっている。けれどその口元はどこか緩むように弧を描いていて、「ほうほう、なるほど」と少々ふざけたような返事をしてきた。なんだその相槌は。
「真面目に聞けオラ」
「聞いてる聞いてる。どうぞ続けて伊佐敷先生」
 それからは体を半分だけこちらに向けるように椅子に横向きで座って、鞄のノートやファイルを物色しつつも、一応所々で相槌を打つことは忘れなかった。どうにも片手間に俺の話を聞いている感は否めなかったが、それでもまあよしとして、俺はピッチャーがいかに野球において重要なポジションであるとか、根性がいるとか、憧れなんだとか、そんなところを語り尽くした。けれど全てを伝えきれないままに教師が入ってきて、学級委員の号令で悔しいが話を止めざるを得なくて、俺も口を閉じた。起立、礼、で座り直したは今度こそきちんと前を向いて──と思ったらささっと後ろを振り返ってきた。
「ねえ、今度伊佐敷のポジションの話もしてね」
「……なんだよ、急に」
「聞きたくなった!それだけ!」
 逃げるように言葉短くそう言い残して、アイツは再び前を向いた。
 そういえば、初めてこいつと野球の話したな。

「珍しいね、また日直だ 」
 朝練を終えて教室に入ると、先に歩いていた亮介がそんな声を上げた。つられて黒板を見ると、確かにアイツの名前が書いてあった。日付はきちんと今日に直されているから、日直の部分だけ修正し忘れた、なんてミスではないらしい。ていうか、昨日は俺の名前が書いてあったんだから、ミスもクソもない。うちのクラスの日直は席順で、昨日の俺の前にはが担当だった。だから亮介が珍しい、と言ったのも頷ける。そうそう連続で日直になることは無い。ただ、なにかしら生活態度にマイナス要素が多いと指名されることがしばしばある。遅刻したとか、提出の忘れ物が多いとか。
「アイツなんかやらかしたんじゃねえの」
 だからその時の俺は、怒られたペナルティとかなんじゃねえの、と適当にそんなことを考えながら自分の席についた。鞄の中から取り出した荷物を机の中に仕舞おうとして、中で何かに引っ掛かった。なんだ、と手を突っ込んで気になるものを取り出すと、見慣れた分厚い日直日誌が出てきて。俺はそこで初めてもう一度、黒板の日直欄の名前を凝視した。『連帯責任で──』と話すがぼんやりと、だがしっかりとよみがえる。やべ、俺、日誌出し忘れた。やらかしたのはアイツじゃなくて、俺だった。昨日、休み時間に日誌を書くように急かしてきてくれたは、そのあとは日誌については一切触れてこなかった。当たり前だ。赤ん坊じゃあるまいし、俺が書き始めてから提出するまで全てを見張ってないといけないわけでもない。けれど、に何も言われなかったせいか、俺はあの時書き終えた日誌を一度机の中にしまってからというもの、その後一度としてその存在を思い出すことはなかったのだ。じわじわと思い出された昨日の一連の出来事に、虚しい罪悪感が襲ってきてただひたすらに自己嫌悪のループへと陥っていると、聞き慣れた明るい声が「おはよー」と俺に呑気な挨拶をかましてくる。だ。
「……ってあれ、伊佐敷?」
「……おう」
 おう、じゃねえ。俺はもっと他に言うことねえのか。曖昧なトーンで返事をしたせいで、「どうかしたの、元気ないね」と余計な心配をされる始末だ。落ち込んでいる、といってもこれは自己嫌悪の類で、なによりお前に迷惑が掛かっているミスをやらかしたんだと、に言わねばならないことは山ほどあるというのに、俺の口は切り口を迷うがごとくあー、とかうー、とか、だらしのない発声をするばかりで。そうこうしているうちには自分の席に落ち着いて、まっすぐ黒板の方を見ては「あれ、私日直だ」と気づいてしまった。
「いや、それ、俺のせいなんだわ……多分」
「え?」
 振り返ってきたに、机の中で一晩過ごした日直日誌の姿を見せると、何かを察したように「あ、」と短い声を上げた。おそらくの頭にも、昨日担任から俺の日直仕事を監督するようにと言いつけられたあたりの出来事が蘇ったことだろう。
「あはは、結局忘れたんだ、伊佐敷」
「わりーな……」
「いいよ別に。昨日、結局雨降らなかったし、外で練習できたんでしょ?」
 けれど、日誌を引き継ぐように俺の手から取り上げたは、軽やかに笑いながらそう言った。
 の言った通り、昨日はどんよりした天気に雨がいつ降るのかとそわそわしていて、放課後になった途端、少しでもグラウンドが使えるうちに練習がしたいと教室を飛び出した。俺の頭には練習の二文字しかなくて、日誌のことなんてとうに忘れていたのだ。自分勝手な奴だった。そのおかげでとばっちりを食らったというのに、は笑って許してくれるんだから、人がいいというかなんというか。
「晴れ、のち曇り、のち降る……じゃなくて、晴れでした、っと」
 は後ろを向いて俺の机の上でいそいそと日誌を広げ、ページをぱらぱらと捲る。昨日の俺の書いたところまでたどり着くと、天気の欄に、横から晴れの二文字と太陽のマークを書き加えては笑った。
「今日は天気いいから存分に練習できるね。良かったじゃん」
 そこに名前が書いてあるだけで先生の使い走りに任命される確率は格段に上がるし、授業毎に黒板を消したり日誌を書いたり、面倒くさい日直なんていう仕事をまたやらされる羽目になったというのに、俺の部活時間が増えていることだけに良かったといって笑う女が俺の目の前にいる。お前にとっちゃ良くねえだろ、と言いたかったのに、の他意のない笑顔を前にうまく言葉が出てこずにつばを飲み込む。こいつの、何気なく笑っている顔は多分、ずっと見飽きないんだろうなということには、もう前から気づいていたはずだった。でも見飽きないとか、そういう類いじゃないことに、今更ながら気付いた。見飽きないんじゃない、見ていたい、だ。
 気付いたことにはどうしようもない。無視できない感情は勝手知ったる顔で俺の心の中を侵食していく。自分の不甲斐なさが招いた結果であるからと、今日の日直の仕事、日誌を書くこと以外の雑用を全て俺が引き受けると言って、仕事を肩代わりしていたことも、予期せず拍車をかけることになった。授業にやってきた教師陣が、ノート提出なり課題なりの雑用を押しつける際に、「今日の日直は──」と、黒板の脇に書かれた俺との名前を見て、「そうか、伊佐敷とか。じゃあ二人は後でこれをまとめて職員室に」とわざわざ名前を揃って読み上げて指名してくるもんだから、胃の端っこがどうにも落ち着かない授業を数コマも過ごすことになった。それもこれも、俺の失態でが日直をさせられていることに気付いた亮介が、ふざけ半分で、いや、アイツのことだから百パーからかって、朝はの名前しか書いてなかった黒板に、俺の名前を書き足したせいだ。
「どうせなら相合い傘でも書いておいた方が良かった?」
「ガキじゃあるめえし」
「嫌じゃないんだ?」
「っせ」
「否定もしないんだ?」
「何でお前ってそうやって……気付くんだよ」
「さあね。純と違って兄貴だから、そういう目があるのかもね」
 ホームルーム終わりに黒板を掃除していると、帰り支度を終えたらしい亮介が鞄を背負って近づいてきた。今日は野球部はオフだ。急ぐ用事もないから日直の仕事も気を抜かないで最後までやる。黒板を消して、教室の窓を閉めて、最後の授業で教師から頼まれたクラスメイト分のノートを取りまとめて職員室へと運ぶ。良し。綺麗になった板面を前にして満足感に浸っていると、スタスタと誰かが俺と亮介のもとへと近づく音がした。あまり聞かれたくはない話を慌てて切り上げて振り向くと、日直日誌を抱えたがこちらへやってきた。亮介が面白がって俺の脇腹を小突いてくる。うるせえ、にやにやすんな。そう無言で念じながら、思いきり膝裏に足蹴りを食らわせてやった。
「黒板終わっ……た、みたいだね」
「おう」
「ありがとう。じゃ、私日誌とこのノート、出してくるよ」
 ぽん、とノートの山の上に日誌を一冊乗っけたが、よいしょと数十冊にも及ぶそれを抱えようとしている。俺は慌てて「待て待て」と止めに入った。亮介も少し驚いたようで「重いよ?」と口を挟んできた。
「大丈夫、分けて運ぶし」
「そんなの純にやらせればいいのに」
 おい、言い方なんか他にあんだろ、と思わずにはいられなかったが、言いたいことはその通りだったのでフン、と鼻を鳴らすだけで我慢した。その細っこい腕じゃ危なっかしい、日誌を持ってく必要があるならついでにそれも運んでやるから──そんな言葉が頭の中では浮かんでいたのに。
「いいからお前は早く部活行けよ」
 優しさの欠片もないそんな言い草しか出てこなかった。案の定、は少しばかり不服そうに唇を尖らせて「今日は無いから平気だよ」と反論してきた。
「それに伊佐敷だってこれ、一回で運ぶのは無理でしょ」
「野球部なめんな。こんぐらい余裕だっつーの」
「私だって運動部なんだけど?」
 なんだってそう意地を張る。今日は俺のせいでこんな面倒くさい仕事をやらせられる羽目になったんだから、こんなの押し付けりゃいいものを。
「お前、男に花をもたせようとか……わかんねーの」
 しかし俺の口はいまいち殊勝になりきれず、どこか偉そうに物を言う始末。自分でもわかってんだからそんな憐れむような視線を送ってくんじゃねえ亮介。
「あはは、伊佐敷に花とか、ちょっと笑っちゃう。ね、小湊」
 それでも、は俺の言ったことを気にする様子もなく、声を上げて茶化すように笑った。
「想像したら笑い死にしそうだからやめて」
「言葉の綾だ!ふざけんな!」
 けらけらと軽やかに笑うにつられて、亮介がくすくすと笑い始めるもんだから、なんとも恥ずかしくなって大声を出した。それでもは、そんな俺の性格も予想の範疇で驚きもしないのか、「似合わないこと言うからだよ」と言い返して笑う。それから教卓に積んであったノートの山を、先ほどと違って今度は半分ほど抱えあげると、「半分こ」と妥協案を提示してきた。その時の笑顔がちょと心臓にきたからといって、頷いてしまった俺の現金さよ。
「そういうわけで小湊、伊佐敷くんちょっと借りてくね〜 」
「りょーかい」
 歩き出した俺たちの後ろから、亮介が「ごゆっくり」なんて余計なひと言を投げてくる。いらんことを言うな。こんな面倒くせえこと、ちゃっちゃと終わらせて折角のオフを堪能する、前の俺ならそんな類のことを大声で亮介に言い返していたかもしれないのに、今日の俺は言えなかった。隣で歩いている、たかがクラスメイト一人、されど前の席の女子一人、のせいで。
 しかし、意図せず亮介の言葉は現実になった。
 職員室にたどり着いた先で俺達を待っていた英語教師は、運んでいたのが俺達で最後だったから、しかも二人もいるから、という不可抗力の理由で、プリントの整理を頼まれたり、そこへ現れた担任が、「お、なんなら明日の席替え用のくじも作ってくれ」なんて能天気に仕事を加えていくもんだから、全部を終えて職員室を出るころには元々高くもなかった陽が傾いて、荷物を取りに戻った教室はすっかりオレンジ色に染まっていた。
 週に一度、時間割に設定されているロングホームルームのコマは、その時々で中身は違えど、勉強以外の内容であることには変わりなかった。体育祭の準備、受験に関する担任からのお小言、そして時に、席替え。高三にもなれば席替えに一喜一憂するようなガキでもないから、明日、担任が突然席替えをするとみんなに言いだしても、「そういえば最近やってなかったな」とか「久しぶりだ」とか、そんな感想がちらほら出てくるくらいで、ギャーギャー騒ぐようなサプライズにもならないだろう。
 しかし、それを一足先に告知された俺の内心はというと、冷水を浴びせられ、一気に夢から目が覚めたような感覚だった。
 ずっと変わらないはずなんてないのに、それを忘れてしまうほどに、ここ数か月間が不思議と充実していた。席替えか。後ろから二つ目で内職がしやすくて、窓寄りの列だから差し込む日差しが心地よくて、前の席から振り返ってくる奴の無邪気な笑顔が見飽きなくて。でもそれも終わっちまう。あっという間だった。あれか、楽しい時間は早く過ぎるっていう理論。こいつといるのは楽しかった。ぼんやりと鞄に荷物を詰め込みながらそんなことをまた実感する。惜しむらくは、この関係が前後の席というだけで繋がっている現状。でもどうする、なんて悩んでいたら、不意にがくるりとこちらを振り返った。その手には支度の終えたスクールバッグがある。行き先は一緒なだけに、職員室から教室までなんとなく一緒に戻っては来たが、これからは俺は寮に、こいつは通学の駅に、別れて戻るだけだ。別れの挨拶でもされるかと身構えた俺だったけど、が口にしたのは全然関係のないものだった。
「今度さ、新刊出たら教えてくれる?」
「あ?」
「君に届けの、新しいの」
「……おう」
「伊佐敷の野球の話も聞くの、忘れてた」
「そーだな」
「……なんか、まだこの席が良かったな」
 そう言って、俺から視線を外しながらへらりと笑うの表情が、妙に切なそうに見えて、心がぎゅっと鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。無性に、今何かを言わないと一生後悔する、そんな気分にさせられて、俺は思わず口を開いた。
「俺も、言うの忘れてた」
 ぴん、と顔を上げたの、つややかな黒髪が揺れる。
「お前のポニーテールも、下ろしてんのもどっちも好きだから」
「……え」
「交互にやれよ」
 ああ、似合わねえ。女の髪型なんて語るのは俺の柄じゃねえ。こんな夕陽の中で、二人っきりになったときに言うのなんてぜってー無いわと思ってたのに、なんでこんな舞台が整ってんだ。たまたまか。偶然か。俺が望んだわけでもねえし、作ったわけでもない。なのに何でか、俺の心が今言えと叫んでいる。やけくそみたいにその一言が飛び出す。
「俺、お前のこと 」

君と恋に落ちていく方程式

19th,June,2017