※wtコミックス発売前に書いたものにつき捏造ご注意ください
※犬飼くん→女の子→辻くん→ひゃみちゃんってかんじの切ないお話




目的の部屋の前にたどり着いて、ノックのために腕を持ち上げる。けれど、また腕を下ろす。そこへ立ち入る勇気というか、図々しさというか、そういうものが今の自分には足りていないせいだ。前までは何の迷いもなく叩けたこの扉も、今は一呼吸、いや二呼吸も置かなければ、向こうで待ち受けている現実に対する心の支度が整わなくなってしまった。
それから少し、言い訳のような数秒間を過ごしてから、よし、と自分に言い聞かせるように囁いて、もう一度こぶしを固めた。B級トップチームの扉をいざ叩かん、としたその瞬間。

「──あれ、先輩」
「あ、辻、くん」

私の起こす行動より一歩早く、向こうから開かれたその奥に彼がいた。二宮隊の唯一の近距離攻撃手、辻新之助。一瞬、驚いたように私を見た辻くんだったけれど、すぐにいつもの平静が戻り、「どうぞ」と道を譲るように私を隊室へと誘った。何も聞かないでこうして招き入れるあたりが、いかに私がこの隊室にお世話になっているかという頻度を表しているといえる。

「二宮さんですよね?今は出てますけど、多分もうすぐ戻るかと」

だから中で待ってればいいと思います、と促されるままに、自分の居場所ではないそこに片足踏み入れつつ辻くんの言葉を聞く。彼の言う通り、私は二宮さんに戦闘のあれこれをアドバイスしてもらうために、ここへ足を運んだ。二宮さんにはもう何度もお世話になっていることで、それは辻くんも承知のことだ。というか、彼と面識を持ったのも元をたどればそれがきっかけなのだ。
振り返ると、辻くんは扉を押さえながらも、その身体は外へと向いていた。

「あれ、辻くんはどこか行くの」
「俺、ちょっと資料室に用事ができたんです」

彼が出掛けるというのなら、目的の人物である二宮さんもいないこの隊室で部外者である私が一人で勝手に居座っているのは、なんだかおかしい状況のような気がした。出直した方がいいんじゃないか、と私が迷っていると、周りには誰もいないはずなのに、辻くんが、声を潜めるようにして私の耳元で囁いた。

「暇そうにしている人がいて、俺じゃ扱いきれないので。お願いします」

なんでもそつなくこなす器用なこの後輩の平穏を乱す人間と言えば、まぁボーダーには何人か候補は上がるが、彼の示す指の先──つまり二宮隊の隊室に存在するとなれば、おのずと答えが見えてくる。奴だ。
でもそれは、辻くん同様に私だって扱いを得意としている訳ではなくて。

「……先輩に厄介ごと押し付けるなんていい度胸だね?」
「押し付けるなんてそんな。頼りにしてる先輩だからこそ、お願いしてるんです」

辻くんはそんな風に言い訳をしながらも、口許を緩めていた。いつも冷静沈着で、冗談ひとつ言わないような堅物な見えるこの子の、時たま見せるこういうところがズルい。この子は、それをわかってやっていそうだから、尚更にタチが悪いのだけど。

「ここは俺を助けると思って」
「……調子のいいこと言って。用事とかいうのも、ホントなんだか」
「用事は、本当に」

緩めたままの唇が、一呼吸置いてとある人の名前を紡ぐ。

「ひゃみさんが」

その一瞬が、まるで彼にとって別次元の存在であるかのような、そんな強調をしているように感じたのは、きっと私が強く意識してしまっているからだ。

「──ひゃみさんが、資料室でデータの整理をしてて。それを手伝いたくて」

目を強く瞑ってしまいたい、耳をぎゅっと塞いでしまいたい。時折、そんな感情が身体に走るのは、決まって彼が彼女の話をする時とだった。感情の答えは、もう私のなかで居座り続けて暫く経つ。それをもうどうすることもできないということも、はっきりと突きつけられた事実である。きゅっと引き結んだ唇を、私は無理矢理緩めるようにして笑うしかないという、事実。

「……健気なのもいいけどさぁ、もう少し積極的に行けば?」

私より背が高くて、頭もよくて、態度もたまに生意気なところがあったりして、後輩と表現するには難しいことがある辻くんだけど、私の言葉に少しだけ視線を反らした目の前の彼は、十分に可愛い後輩だった。小さな声でやや不満げに「……やってますけど」と反論する彼にとって、今の私はさしずめ、人の恋路にお節介を焼く先輩だろうか。でもどうか、そうであってほしい。先輩の枠から昇格することができないならば、降格もしないままでいられればいい、そう思う。

「わかったわかった。辻くんにとっては大事なだーいじな用事だったね、疑ってごめん」
「……からかわないでください」
「はいはい。じゃあ、氷見ちゃんによろしく」

少し皮肉を混ぜた言葉と共に、ポン、と辻くんの背中を押せば、彼は何か物言いたげに私を見ながらも一歩外へと踏み出した。そのたった一歩が、私からは離れて、彼女へは近づく一歩。抑えをなくした扉が自動的に私たちの間を遮るように閉まってしまえば、私はもう、彼には手の届かない空間へと閉じ込められたも同然だった。
けれど唐突に、ここに一人ではないことを思い出す。

「今日の『先輩』も、百点満点だったなぁ」

愉快そうに私の背中にそんな言葉を投げ掛けてくる相手を振り返ると、彼はちょうど、奥の作戦室からマグカップ片手にこちらへ歩いてくるところだった。口ぶりからしてずっとこちらを見ていたのかと思ったが、どうやら音だけで観察していたらしい。盗み聞きするなんて嫌な奴、と思ったけれど、ここは彼のホームグラウンドであった。文句を言う資格は私にはなかった。それだけに、優劣がついてしまっていて口論では敵わないことを知る。

「健気なのもいいけど、もっと積極的に……だっけ?俺がそっくりそのままお前に送ってやろっか」
「余計なお世話よ」
「なんだよ、そうカッカするなって」
「別に怒ってない」
「息抜きにコーヒーでも飲む?めちゃくちゃ甘いやつだけど」

一歩一歩確実に近づいてきた犬飼は、私の刺々しい言い返しをものともせずに、マイペースにそんな提案を続ける。飲むか、なんて聞いておいて、私の目の前でそのカップを今にも傾けて自分で飲もうとしている。全部見透かしたような犬飼の余裕も、人をからかって楽しむような趣味の悪いところも気に入らなくて、私は思わず眼前にあった彼のマグを奪ってごくり、と飲み干す勢いで喉奥へと流し込んだ。けれど、舌の上を流れるその味は、たまらなく、苦かった。想定外の味に、私はうっ、と顔をしかめる羽目になった。

「……これのどこがめちゃくちゃ甘いって?」

あんた味覚狂ってんの、と半ば睨むように文句を言ったら、犬飼はにんまりと笑って「俺にとっては甘い」と言い返してきた。

「人の不幸は蜜の味、っていうじゃん。──まあでもお前にとっちゃ、失恋の味ってやつ?」
「……そういうひねくれてるとこ、本当に治した方がいい」
「お前にだけだから、ご心配なく」

犬飼がスーツでいることをいいことに、私はこの手に握るマグカップの中身を、奴の頭からぶっかけてやろうかと思った。どうせトリオン体なのだ、熱さも感じないし、火傷なんてしない。けれど人様の隊室にいる手前、床を汚すようなことをできるはずもなく。私は大人しく、但し割らんばかりの力を込めて、握ったマグカップの中身を目の前の輩に一滴たりとも譲るものかと、早急に飲み干すことに努めた。

「おお、いい飲みっぷりなことで。でもソレ、全部あげるとは言ってないんだけど」
「一口だけ、とも言われてないけど」
「お前もそのひねくれたとこ治した方がいいね」
「あんたにだけだから、ご心配なく」

私がひねくれていると言うのなら、それは、元はと言えばこれ見よがしに私をからかってくる犬飼が原因なのだ。
同じくらいにボーダーに入隊して、同じようなポジションに就いた私たちに、ライバル心が芽生えたのは必然だった。必然だったけれど、こんないがみ合うようなものではなくて、もっと気持ちのいいものだった。何度も模擬戦をしては勝ち負けに一喜一憂して、何度も愚痴を聞いたり相談にのってもらったりを繰り返して、たまに喧嘩もした。気のおける友達のように思えるようになっていたはずだったのに、なのに、私が辻くんに気持ちを寄せ始めたことを犬飼があっさり見抜いたあの時から、どことなく、彼の言葉が冷たく感じるようになった。

「あーあ、そんなだから辻ちゃんに振り向いてもらえなかったんだろうね」

例えばそう、こんな風に。
振り向いてもらえないことなんて、そんなこと、改めて言葉にしなくたって、私自身が嫌というほど一番わかってるのに。そうやって言葉でぶつけてくる犬飼が本当に憎い。けれど、犬飼は前はこんな真っ直ぐに人を傷つけて、それをあざ笑うような奴じゃなかったはずだった。冗談を言うことは今まで何度だってあったけれど、これはそういう類のものとは違うように思えた。だって目を見ればわかる。笑っているくせに、笑ってない。それがどうしても解せなくて、腑に落ちなくて、気に入らなくて。売り言葉に買い言葉、私も突っ掛かってしまうのだった。

「……人の恋愛からかってそんなに楽しい?」
「いや全然。……ていうか馬鹿に出来るほどお前の恋愛って始まってないし」

言われてしまえばそうだ、私はなにも反論できない。好きだという気持ちを打ち明けたこともないし、そういう類のモーションをかけたことも、ない。言い訳じゃないけれど、そうする前に辻くんの気持ちが誰に向いているか見えてしまっていたからだ。その予想も、彼にカマをかけてみたりしてしっかり確認してしまった。自殺行為にも等しいそれで、自分には割り込む余地がなさそうだと諦めた以降も、今日のように顔を合わせているが、私はなんでもない『先輩』を装っている。装うことで、諦めはしたものの消えはしない気持ちに、一生懸命蓋をしていた。犬飼の言う通り、始まってなんていない、些細な行き場のない気持ちをぐずぐずと抱えたままで。
そう思うと空しくなって、犬飼にケンカを売るがごとく睨んでいた視線も、ぎゅっと握ったマグカップに落ちていった。空っぽで、なんにもないそれが、まるで自分の心のようだった。なんにもないけれど、苦くてどうしようもない味だということを私は知っている。床に落として割ってしまうように、いっそ粉々にしてしまえたらどれだけ楽だろうと思うけれど、私には、そんなことをする勇気はない。
犬飼に幾度となくからかわれて、ムッとなって壊そうとして、それでも落とさないようにと、片手だけで支えていたそれに、もうひとつの掌で包み込むように添えて、持ち直す。ずっとそんなことの繰り返しだ。

「そう、始まってない。何にも始まってないのにな」

けれどふと、そんな私の手元に影が落ちた。視界を割るように一人の男の手が、マグカップを持つ私の手に伸びて。

「そんなんでお前、悔しくないわけ?」

思わず顔を上げてしまったのは、犬飼の声が、さっきまでと違って抑揚のないトーンに変わっていたからで。そこで私の瞳とかち合ったのは、こちらを覗き込むようにして壁に寄りかかった犬飼の、なんとも物憂げな眼差しだった。

「ずっと物わかりいい先輩のままで見向きもされないで、散々俺にもバカにされて」

それが、コーヒーをたぷんと揺らせながら私に近づいたときの、あの犬飼に投げられた言葉だったなら、私は怒って平手一発くらいお見舞いしていたかもしれない。

「それなのに、なんでそんな顔するかな」

けれど、今の犬飼からはその逆、私を逆上させるような意図じゃなくて、むしろ犬飼本人が人知れず沸々と怒りを募らせているかのような雰囲気を感じた。

「そんな顔って、何……」
「誰かさんのことで切ないってカオ」

名を伏せられていても「誰」という言葉が指すその先はきっと、犬飼にとってはただひとり、自分の自慢の後輩のことなのだろう。
けれど鏡を写すように、私の瞳は悩ましい男の顔を捉える。

「犬飼こそ、なんでそんな顔するの」
「……は?」

それは今この一瞬で生まれた疑問だった。悔しくないのかって聞いた犬飼が、切ないと見抜いた犬飼こそが、まるで何かを我慢するような苦悶の色を浮かべているのだ。
そして反面、それはずっと聞きたかったことでもある。いつも辻くんのことで私を馬鹿にして笑っているようで、その瞳が笑っていないのはどうしてなんだって。彼から感じる冷たさの正体はなんなんだって。
犬飼がどうしてそんな顔をするのか、私はその理由を探すたびに、どこか寂しくて、そう、切ない気持ちになる。それは好きな人に振り向いてもらえない切なさととても似ていて、混ざってしまうと、そのうちどっちがどっちかなんてわからなくなってしまいそうな気がした。
私が切ない顔をしているというのなら、それはあの後輩一人のせいではなくて、きっと、目の前のこの男のせいでもある。あの時伸ばされた手がしっかりと私の手首を捉えて、そこから何かを伝えんとばかりに力を込めて握ってくる行為に、何も感じずにはいられないのだ。

「俺が、どんな顔してるって?」
「苦いコーヒー飲んだときみたいな、顔」

私がそう答えると、犬飼は驚いたような表情をした。いつもは、なにもかも分かったような体をして私を見るあの瞳が、少しだけ大きくなって私を見下している。けれどそれは一転して険しいものに変わった。ぎゅっと眉を寄せて不機嫌を露わにし、そしてなぜか、私の片手をぐいっと引っ張った。突然のことで体勢をどうにもコントロールできない私を、犬飼はその胸で受け止めた。おまけに頭をぐっと抑えられ、どこへ顔を動かすことも叶わなくなる。世間で言う、抱きしめる、とは少し勝手が違うようなそれで犬飼の胸元に閉じ込められた。

「犬飼、好きな人、いる?」
「いるよ」
「……私もいる」
「……知ってる」

一歩も踏み出せないような、情けなくてたまに悔しくなるような恋をしている。忘れてしまえばいい苦い味の恋を、忘れられないでいる。

「知ってるよ、ずっと前から」

それとは別に、誰かを思うと苦しくなるこの気持ちを、私たちはどうにも名づけられないまま、持て余している。

となり合う幸せと不幸せ

20th,October,2015
title by 不在証明