「ちょっと、何やってるの」

ぐい、っと腕を後ろに引かれ、思わず我に返る。振り返ると、私を引っ張った張本人が夜目でもわかるほどに呆れた表情をしていた。なぜだろう、と考えていたら、ため息ひとつ落とした後、春市は私たちの頭上を顎でしゃくって見せた。

「見えてないの?信号、まだ赤だよ」
「え、……ああ、そうだけど」
「まだお酒抜けてないの」

呆れ顔に疑うような色が混じる。そんなことない、と否定するも、春市は肩をすくめて私の言い分を信用する気配が全くない。
久しぶりの青道野球部との飲み会は、結局居酒屋を二軒はしごするほど盛り上がりをみせ、終電ギリギリの時間に解散になった。同じ大学に通っていた春市や、学校は違えどよく連絡を取り合ってはいた沢村や金丸たちの他、普段はあまり会えない先輩方とも久しぶりに対面したせいか、いつもよりたくさんのグラスを空にしたと思う。だから確かに、あの場で酔っていたかと問われれば酔っていたかもしれないけれど、今はそうでもないのだ。飲み会がお開きになって、終電になんとか春市と二人して飛び乗って、でも乗り換えに失敗して、結局途中から歩いて自宅まで帰ることになった。私と春市がそれぞれ一人暮らしをするアパートは徒歩十分圏内にあるので、こうして彼が送ってくれている。まだ家には着いていないけれど、今まで歩いてきた距離を考えると、結構な酔い覚ましになっている。足元はふらついてないし、頭だってぼんやりしていない。赤信号だってわかっていて渡ろうとした。

「だって車なんてひとつもないし、赤で渡っても別に平気じゃない」

通りには車はおろか、人っ子一人いない夜更けなのだ。私のブーツが響いて聞こえるくらい、辺りはいたって静かだった。見える範囲には私と春市の二人しかいない。そんな横断歩道の信号が赤だと言ったって、無視して踏み出してしまうのは仕方のないことだと思う。それでも春市は私を引き留める力を緩めようとはしなかった。その強さがまるで「青になるまで待て」と無言でプレッシャーをかけてくるようだったので、口ではああ言い返したけれど、私は足を踏み出せなかった。

「赤は止まれ、って、小さい頃に習ったよね?」
「習ったけど」
「じゃあ止まっていようね」

その怖い腕力とは裏腹に、にっこりやわらかい笑顔を浮かべて春市が私を制す。まるで小学生相手に諭しているような、それでいて有無を言わせない微笑みに、私は今まで一度として逆らえた試しがなかったことを思い出した。故に大人しく春市の隣に並んで信号が変わるのを待つことにした。落ち着いた私を見て、春市は私の腕を解放してくれた。ズボッと、彼の手がコートのポケットに突っ込む音がする。さっきカイロを持っていたから、あのポケットの中は温かいんだろうなぁ。うらやましい。私のポケットはスマホの無機質なカバーでひんやりしている。

「春市って意外に律儀なんだね」
「そうかな」
「だってこんな寒い真夜中に、信号待ちする人間そうそう居ないよ」

律儀というか、最早物好きだ。喋る度に生まれる吐息が白く曇るほどに、外気は冷たく、頬に刺さる。
そんな気温だというのに、危険のない横断歩道を渡ろうともせずに呑気に待ちを選んでいるのだから。
でも、交通ルールは真夜中になったら破ってもいいなんて道理はないので、自分の言っていることが正しいわけもなく、だからまぁ、上手く反論できずに言い訳じみた言い方をしてしまうのだけど。

「待った方が良いときもあるって思わない?」
「……なにそれ?」

彼にはまるで似合わない、お気楽主義者のような物言いに、思わず春市の方を振り返る。すると彼は呑気に夜空を見上げていた。普段はあまり姿を見せない彼の瞳が、前髪の隙間から覗くその横顔を、不意に見惚れてしまう。

「今日は雲がないから、少し星が見える」
「好きだったっけ?星とか」
「いや?特には」

都会育ちだしね、と笑ったその言葉の裏には、満点の星空の下で育ったという同級生投手たちがいるのだろう。あの二人なら星座などに詳しそうだなとは思う。けれど隣に立つこの人にはそんなイメージは全くなく───まぁ実際興味はないみたいだけど───「あれ、なんて星だろうね」なんて私に尋ねてくる姿こそ、酔ってるの?と聞いてみたくなってしまう。もっとも、彼が人の数倍アルコールに強いのは百も承知なので口には出さないが。

「私も星座とか全然だけど」
「知ってるよ。って、そういうロマンチックなことに微塵も興味ないよね」

どこかチクリとする物言いは春市のアイデンティティのようなもので、もう慣れっこだったけど、やっぱりどこか腑に落ちない気分になる。思わず「悪かったわね、興味ない女で」と突っかかりそうな気分。多分これは、世間で言う「へそを曲げる」というやつだ。
春市に倣うように冬空に浮かぶ星を探してみたけれど、名前はおろか大三角形なのか四角形なのかもわからないし、そもそも星空をのんびり眺めているくらいなら、早く家に帰ってあったかい布団にくるまりたいと思ってしまうくらいには、今の私は浪漫の欠片もない、もっというと、可愛くない人間だと思う。でもそんな自分を、隣にいる彼はどう思っているんだろうと気にする程度には、まだかろうじて女の子なのだ。
春市と二人で並んで歩くのは、何も今日が初めてのことではない。高校生の頃から、部活でマネージャーの仕事が遅くなったときには何度も駅まで送ってもらったりして、大学に入ってからは最寄駅が同じなせいか、ホームでばったり出くわすことが多くて、そこからなんとはなしに一緒に帰ったりして。回数で距離を測るのなら、もうとっくに大親友の域に達していると思う。まぁそうでなくても、飲み会の帰りに当たり前のように「じゃあ帰ろっか」と春市が声をかけてくれるほどには縮まっているけど、そこからあと一歩がなぁっていうのが悩みどころだった。試合で例えるならば膠着状態。一緒に帰ることを先輩に冷やかされても笑って流せるくらいに慣れちゃって、周りに誰もいない、こんな真夜中に二人っきりでいるっていうのに、浪漫の欠片も働かない空気の中で信号待ちしている。やっぱり星座のひとつでも覚えておくべきだったのかもしれない。なんだか自分がつまらなく思えて、マフラーを引き上げて鼻の頭近くまで隠した。するともぞもぞと動いた私に気づいたのか、春市が私を振り返る。

「寒い?」

うん、と呟いた声はどうも布に遮られくぐもってしまったので、春市の方へ首を動かして、改めて頷いて見せた。春市は「だろうね、鼻が真っ赤だ」と私の顔を見て笑った。
そうやって彼が笑った時に、ふわりと寒さが和らぐように胸が温かくなる瞬間が好きだなぁと思う。その時は、冷たい真夜中の空気さえも忘れられるような気がするのだ。恋の訪れを春だと称する言い回しがあることを思い出す。あれを言い出した人は誰なのか定かではないけれど、本当に、真冬でもあの温かさを思い出すことができるのだから、ぴったりな言葉だと思った。私にとっての春は、この人の笑顔から生まれる。ちょっとばかりへそを曲げたことだってすぐにどうでもよくなってしまうくらいにあっさりと包まれて、目が離せなくて、───って、待って、何か空気が違う、と夜風に我に返った時にはもう遅かった。目を逸らすタイミングを失って、動かせずにいる視線の先の春市もまた、私を見つめたままで、その瞳に思わず息を止めそうになる。こんな時に、不意に自分の言葉を思い出す。車も人の通りもない、静かな交差点。お店を出てきてからずっと二人で歩いてきたのに、今この瞬間、春市と二人きりだという事実になぜか緊張した。なぜかとても、ドキドキしている。

「……あのね、俺だって、赤でも渡っちゃうときあるよ。急いでる時とか、いつでも大人しく待ってるわけじゃない」

そう言うと、春市は寒さの届かないポケットから手を出して、さっきのように私の腕を捕えた。引っ張られる力につられて横を向くと、反対側の横断歩道の信号が、チカチカと点灯を繰り返していた。向こう側は、もうすぐ赤に変わるらしい。赤になる、とするとこっちは、青になる。

「でも今は、待てと言われたら待ちたいし、興味のない星空だってのんびり眺めてみたい。だって急いでないし、寧ろゆっくり帰りたいって思ってるから」

片腕で私の体を自分の方に向けさせて、空いたもう一方が、すっと私の顔近くまで伸びてくる。私はもう、渡ろうとしていた信号がどうなったのかを気にする余裕がなくなった。その手の行方と、至近距離から覗く春市の瞳にすっかり気を取られてしょうがなかった。

「でも誰かさんは薄情なことに、さっさと帰ろうとするんだけど……つれないと思わない?」

私の面前に伸びたその手は、音もなくマフラーを摘まんで、覆っていた口元を露にするように引き下げた。外気に触れた唇がつんとする。目の前の瞳に心臓がドキドキと煩くしている。含みを持たせた春市の言い方が拍車を掛ける。

「それって、……まだ私と一緒にいたいって、言ってる?」
「そう聞こえるならそうかもね?」

やっぱり言わない春市の言葉はどこか腑に落ちない、物足りなさを伴っている。どういう意図なのかはっきり言わないくせに、私の腕を掴んでいた彼の手はゆるゆると降下して私の指先をからめとり、マフラーを摘まんでいたもう片方の手は私の頬に熱を分け与えるようにそっと触れた。ずるい。好きだと伝えるように触れてくるその温かい指先が憎いと思った。これで誤解だったなんて言われたら、恥ずかしいを通り越して怒るからね、と内心でぼやきながら、私も負けじと言い返した。

「……本当にさっさと帰りたかったら、とっくにタクシーに乗ってる」

歩いて帰れない距離でもないし、酔い覚ましに少し歩かないかって春市が提案してくれたとき、まだアルコールの抜けきらない頭だったけれど、確かに思った。電車で帰るよりも、タクシーで帰るよりも、春市の隣にいる時間が伸びたと、嬉しさを覚えたのは確かだ。これを恋と呼ばずしてなんという。
けれど、まるでそんなことは思い至らなかったとでもいうように、春市は私の言葉を聞いて目をしばたたかせていた。ちょっとした反抗心のつもりで、私の頬の上でフリーズした春市の指先を、今度は私から捕まえてみる。冷えきった私の手先とは大違いで、あったかい。

「───それって、まだ僕と一緒にいたいって言ってる?」

でも彼が驚いていたのはほんの一時のことで、すぐにその声には余裕が浮かんだ。主導権を奪うように彼のその手にぎゅっと力がこもる。私たちの手は恋人が繋いでいるような状態には程遠かったわけだけど、それも多分、時間の問題なのかもしれない、と心の中で思った。じつはそのカウントダウンが少し待ち遠しく思えたなんてことも、胸の奥にしまってそっとひみつにしておくけれど。

「そう聞こえるならそうなんじゃない?」
「……じゃあお言葉に甘えて。もう少し引き止めることにするよ」

そう言いながら春市はちらり、と意味ありげに視線を動かす。その行方を追えば、私たちが寒さを忍んで待っていたはずの信号が、今まさに青から赤へと変わろうとしていた。……やられた。なんだかすごろくで一回休みをくらった気分だった。

「また青になるまで待たなきゃならないじゃん……」
「神様が待てっていってる気がしない?」
「しない」
「夢がないなぁ」
「寒くて死にそうなときに夢なんて見てられません」
「でも待っててくれるんだ?」

あ、と思った時にはもう遅く、言ってしまった言葉は取り返しがつかない。墓穴を掘った。赤だということも厭わず、車の往来もない横断歩道をずんずんと横切ってしまえば揚げ足を取られずに済んだのかもしれないのに、律儀にルールを守る春市に、浪漫を語る彼の誘惑に、私はいつの間にか毒されていた。にっこりと人の良い笑みを浮かべて私を見ている彼の口元は、とても楽しそうで、なんだか癪だった。
寒いっていうのも本当だし、早く暖かい家に帰りたいというのも本当だけど、春市とつながったこの手が暖かかくて、離しがたいというのもまた、私の本音であって。
夢なんて見なくたって、この現実だけで私には充分なのだということは、悔しいのでもう少し黙っていることにする。

真夜中のシグナル

201401227.