こっち。
 ギシッとベッドが軋む音がする。その存在を、頭の方から感じる。枕元の自分の髪の毛が何かに掠れたようなくすぐったい感覚が私を襲う。無理、そこに座られたら見れない。顔を隠したこの手を動かせるわけがない。早鐘を打つ心臓の音だけを一心に聞きながらそんな言い訳を巡らせた。けれど、無情にも頭上から、とんでもなく近いところから、声は聞こえてくる。
 俺の顔、見ろ。
 鼓膜を震わせる荒船の声が、少し呆れているような気がする。手のひら一枚隔てた向こう側から届く。そこにある、そこにいる。少しでも身動ぎをしようものならぶつかってしまいそうな距離だろうか。見えていないから余計に近くに思えて仕方ない。そんな近さ、今の今まで散々避けまくっていた私にはキャパオーバーも同然なのに、荒船は知らんぷりをしている。わかっているのに、そうやって私を追い詰めている。
 パシッと、いよいよ荒船が私の手を掴みにかかった。ドキッと肩をびくつかせたその隙に、パッと片手が持ち上げられて、私の視界が明るくなる。観念して開いた瞳の先には、逆さまの荒船の顔がある。上から私を覗きこむように向けられている、彼の顔。珍しく帽子をかぶっていないせいでふわりと揺れている、荒船の、薄い色素の前髪と、きりりとこちらを見つめる円い瞳。
 ──あれ?
 記憶の片隅で、彼の顔かたちが何かに引っかかった気がした。

 私のまるで役に立たない記憶力がようやく働き始めるよりも、私がベッドの上で目を覚ますよりも、諏訪さんがお節介を焼くよりも、荒船が「見つけた」よりも、ずっと前。怒涛のその始まりは、ボーダー本部の食堂で私が吐き出した、大きなため息に由来する。
「どうしたの?」
 パスタをくるくるとフォークに巻きつけていた倫ちゃんが、くりっとしたその瞳を大きくして私を心配してきてくれた。
「うん……」
 なんと説明していいものかわからず、私は曖昧な返事をしてしまう。手元のきつね蕎麦からもくもくとたつ湯気と香りは、ちくちくと空腹を刺激するというのに、器に突っ込んだ箸は食欲の言うことを聞かず、凹んだメンタルの言いなりになっていた。
「最近ため息多いけど……あ、ねえ、もしかして荒船君と何かあったの?」
「えっ、なんでそこで荒船」
「だって、学校にいる間はそうでもないのに、本部に来ると落ち込み始めるっていうか……」
 流石、普段同じクラスで生活しているだけあって、目敏い倫ちゃんの指摘がずばずばと的中していく。
「ボーダーに来てそうなっちゃうってことは、本部の仕事か、ここで会う人かに、何か悩みがあるってことでしょ。今はランク戦も休みだし、が最近防衛任務で失敗したって話も聞かないし。じゃあ誰かと何かあったのかな、って思ったら……やっぱ、荒船君が浮かぶじゃない?」
 どう、当たってる?と私に聞いてくる倫ちゃんは、ニコニコと笑顔を浮かべていて、私の返す答えにもおおよそ見当がついているようだった。勿論、その答えはイエスである。ため息の原因は、通う学校は違うけれど、ここボーダー本部ではよく顔を合わせる、同期の荒船哲次にある。
「なに、痴話喧嘩?」
「喧嘩はしてない……っていうか、痴話って、夫婦じゃあるまいし」
 夫婦どころか、荒船と私は付き合ってもいない。そういう気持ちがないかと言われれば嘘になるけれど、これは私からの片一方の矢印に過ぎなくて。なのに、冗談めかして笑う倫ちゃんは、私の反論を気にも留めずに明るい口調で「まあまあ」といなすばかり。
「でも、昨日荒船君と会った時別にそんな感じしなかったけどなぁ」
「昨日?」
「防衛任務のとき。のこと普通に話したよ」
「ええ、何?何言ったの」
「明日学校終わりにと一緒に来てお昼食べるから、荒船君も来る?って誘っちゃった」
 とんでもないことを可愛く報告してくる倫ちゃんに、私は思わず「エッ!」と大きな声を出してしまう。けれどその後、倫ちゃんはあっさりと「まあ軽くかわされちゃったけど」とネタ晴らしをした。そして、私がその言葉にほっと肩をなでおろしたのを、倫ちゃんは見逃さず。
「……が荒船君と会いたくないなんて、本当にどうしたの」
 確信を突いた言葉で私に尋ねてきた。
「前は荒船君と会えるって聞いたらすっごい喜んで、ニコニコして、照れちゃったりして可愛かったのに」
 以前の自分の態度をそう指摘され、なんだか気恥ずかしい気持ちになる。それと同時に、今の気分との落差に現実を突き付けられたような気がして、再びため息がこぼれる。
「会いたくないというか、会ったら、なんか、自信がなくなりそうっていうか……」
 自分の気持ちを説明できる、しっくりした言葉が見つからなくて困窮する私に、倫ちゃんは「まあ食べながら話そう」と言って、またちゃきちゃきパスタを巻き始めた。私も、これ以上お蕎麦を伸ばすわけにはいかなくて、お箸を動かしながら話すことにした。
「この間、荒船に初恋の女の子がいるって話を聞いた」
「なんで急に、初恋の話なんてしたの」
「荒船っていつも帽子被ってるじゃん?だから帽子とか好きなのって聞いたら、クセみたいなもんだって、言われて」
「クセ?」
「うん。昔出会った女の子に帽子を貰ったことがあったとかで……詳しいことは聞けなかったけど、なんか忘れられない思い出があるっぽかった」
 どこか照れくさそうに話す荒船の表情は、あれから何日も経った今でも私の記憶にしっかりと刻まれている。凛々しい眉がいつもよりちょっとだけ緩んでいて、柔く細められた目元が彼の記憶の暖かさを物語っていた。
「それってホントに初恋なの?荒船君がそう言ったわけじゃないんでしょ?」
「あの顔はぜーったい惚れてた!」
 ずっと昔の、まだ小さい頃の思い出だというのに、そのことをしっかり覚えているところをみると、その女の子を特別な何かと思っているに違いなかった。現に私は、そうやって思い出を話す荒船の傍らで、彼に思われる女の子のことを考えては羨むような気持ちを感じていた。名前も知らない、覚えているのはまだ幼い頃の顔と雰囲気だけで、今どこで何をしているかなんて全く分からないと語っていたのに、言葉とは裏腹に話す表情は心なしか、明るく楽しそうだった。
「でも、それにしたって初恋でしょ?誰だって初恋の一人や二人いるでしょうに、なんではそんなに落ち込むわけ?それに、荒船君だって今は……」
 倫ちゃんは最後まで言わなかったけれど、言いたいことは概ね理解していた。そりゃあ、私にだって小さい頃にいた。顔も思い出せないけれど、髪がオレンジ色でキラキラしていたのを覚えている。あれ以来、好きになる芸能人は決まって髪を染めている人だったっけ。
 そう、高校三年生にもなれば、誰だって初めての恋くらい経験していてもおかしくもなんともない。問題は、そこじゃなくて。
「荒船も、その子のことは中学校までそんなに思い出さなかったっていうか、覚えてなかったんだって」
「え、じゃあ……なんで?」
 あの時、私が荒船に疑問に思ったのと同じように、倫ちゃんが首を傾げる。
『高校入ったくらいからかな……なんか急に思い出すようになったんだよ。だから、もしかしたらどっかで……ソイツと会ってる気がすんだよな』
 私の問いに、くすぐったそうに首筋を掻きながら荒船はそう答えた。なんか、もしかしたら、どこかで。あやふやな記憶は日を追うごとに彼の中で色濃くなっていって、いつかの幼い感情までを呼び起こしたのだ。
「たぶん、高校の同級生とかにいるんだよ……荒船の初恋の人」
 校内ですれ違っているとか、二三、挨拶を交わしたとか、きっとまだその程度でしか面識がなくて、明確に当時のあの女の子だと思いだせずにいるだけなのだろう。それでも、荒船の中に残る思い出にすこしずつ重なる何かがあるに違いない。だから近頃荒船は彼女のことを思い出すようになったのだ。
 今はまだ、思い出の中でしか会うことのできない、記憶の一ページの女の子に過ぎないその子が、もしいつか、季節外れの転校生のようにやってきて、荒船の目の前に現れて、感動の再会なんてしてしまったら。その昔、彼が心奪われていた相手が再び現れたりしたら、今お付き合いしている彼女もいない荒船は。
「その子のこと見つけたりしちゃったら、絶対また好きになるに決まってる」
「そんなのわかんないよ?」
「わかる!初恋はそうだよ!特別だもん!」
 ボーダーで、仕事で顔を合わせる程度で、まだ荒船と知り合って二年そこらしか経っていない私が、初恋なんていう特別な思い出のある、そして多分同じ学校に通って毎日会えているかもしれない女の子にかなうはずがない。けれど、そんな子と再会してほしくないなんて本音を言えるはずもなくて、私は「見つかったら教えてね」なんて見栄を張って荒船に笑っていた。本当は見つけてほしくもないし、教えてほしくもない。今だってもう、倫ちゃんに事の次第を話すだけで心の中は大洪水なのに、実際に教えでもされたら泣きそうだ。
「なるほどねー……次に会った時に、荒船君にその初恋の子を見つけたって報告されるのが怖くて会いたくないんだ?」
 さすがオペレーター、私のへたくそな説明で、私の気持ちをてきぱきと理解してずばずばと代弁してくれている。食べ終わったお蕎麦の器をお盆ごと脇に寄せて、テーブルの上に突っ伏しながら私は頷いた。制服のワイシャツが皺になりそうだったけれど、そんなこと気にしていられなかった。
 こんなことなら、初めて会ったその時に、まだ荒船のことを好きでも何でもなかったその時に、知っていたらよかった。今じゃ、荒船のことをこんなに好きになってしまった後では、ダメージが大きすぎて。
 私の脳裏には、顔も姿もわからないくせに、とっても美人でスタイルの良い、大和撫子みたいな女の子が、荒船の隣で楽しそうに微笑んでいる図が浮かんでいる。荒船哲次という男は、孤月を構える姿は三百六十度どこからみてもかっこよくて、イーグレットを構えるその真剣な瞳は、息をのむような美しさがあって、そんなイケメンの横に並ぶのは、やっぱりそれくらいの美少女がお似合いだと思ってしまうせいだ。
 どうして私は、荒船なんていうかっこいい奴を好きになってしまったんだろう。勉強もできて、戦闘員としても優秀で、私とはそこんところ全然違う。接点といえば、二年前の同じ日にボーダーに入隊したことくらいだった。あの時は、たくさんいる同期の一人に過ぎなかったのに、C級の訓練で出くわすことが多かったせいか、同じ孤月使いとして個人ランク戦で対戦することが多かったせいか──もう、どれがきっかけだったのかわからないくらい、荒船との思い出がたくさんある。剣さばきの特訓が上手くいかなくて悩んだとき、荒船は親身になって聞いてくれた。優しい人だなと思った。B級に上がれたときは、自分のことのように喜んでくれた。荒船と同期で良かったなと思った。ボーダーにばっかり夢中になって、学校の定期試験がやばいって慌てたときも、頭のいい荒船は呆れながらも隣で面倒を見てくれて、その時、彼の横顔が、ちょっとかっこいいなと、ときめいたのだっけ。
 ああ、私やっぱり荒船が好きだなぁ。できることなら、ずっと彼の隣にいられたらいいのに、と思うほど、誰かさんのことが大好きだ。でもそのうち、私ではない女の子が、荒船の隣で笑うようになるのかもしれないと思うと、ちくちくと胸が痛む。
「倫ちゃん……助けて……」
「助けてあげたいのは山々なんだけどね……うしろ見て」
「え?」
 私の面倒くさい独り言にも構ってくれるなんて優しい、と思っていた矢先、倫ちゃんは、どこか困ったような顔をして私にそう言った。後ろってなんだろう、と体を起こして彼女の示す方向を振り返ると。
「あっ、倫と!やっぱりここにいた〜」
 食堂の入り口辺りに、ひらひらと大きく手を振ってこちらへ呼びかけている女の子がいる。太刀川隊のオペレーター、国近柚宇だ。彼女がどうかしたのだろうか、と首を傾げたのも一瞬のこと、柚宇の後ろに続いていた人影を見て、私はすぐに倫ちゃんの言わんとしたことを察した。後ろには、彼女と同じクラスに通う当真の姿と、彼と同じ狙撃手である荒船の──つまり私が今一番会いにくいと話していたその人がいた。二人とも、いつものトリオン体でいる。任務か訓練でも終えた後なのだろう。柚宇が私たちを呼ぶ声に、何か話し込んでいたらしい二人はくるり、とこちらへ顔を向ける。咄嗟のことに、私は思わず目を合わせられなくて、思い切り顔を背けてしまった。逸らした先にいた倫ちゃんが、そんな私に苦い顔をする。
「ねえ、まさかとは思うけど……ここんとこ荒船君避けたりしてないよね?今みたいに!」
「そんなあからさまには……」
「あからさまじゃなく避けてるってことでしょ、それ」
「避けるとか、そんな大袈裟なことは……」
「食堂で姿を見かけても挨拶もしないで目を逸らすのは、十分大袈裟!」
 鋭い指摘に私が言い返せずにいるところへ、ぱたぱたと駆けてきた柚宇が現れる。まったくもう、と少しご立腹な倫ちゃんと、肩身の狭い私を見て首を傾げていた。
「どうかした?」
 倫ちゃんは黙っていた。私の出方を待っているみたいだった。
 柚宇は私たちのテーブルへすぐにやって来たけれど、それに続く男二人の姿はなかった。ゆっくり歩いているのかもしれない。いつもみたいに会うのが少し不安な私は、ここでこっそり食堂を後にすることもできた。でも倫ちゃんがさっき私に言ったことを考えると、やっぱりここで避けては、荒船に変に思われるかもしれない。迷った挙句、私は柚宇に「なんでもないよ」と取り繕ってここに居続ける方を選んだ。
「柚宇はどうしたの?私たちのこと探してたみたいだったけど」
「そうだ、あのね!この雑誌におサノちゃんが載ってたんだけど──」
 私の言葉を継いで、倫ちゃんが柚宇に来訪の意図を尋ねた。彼女は持っていた雑誌を机に広げつつ、空いた席に座って堰を切ったように話し始める。
 洋服が、小物が、靴が、とあれこれ騒ぐ柚宇の話を聞くに、どうやら小佐野瑠衣ちゃんが載っているこの雑誌を当真と眺めていたら、こっちが可愛いとか、いやこっちの方が男は好きだとか、そういう意見の食い違いが生じたらしい。偶然通りがかった荒船を捕まえて、当真が二対一だと勝手に多数決の図式を作ろうとしたので、彼女もそれに対抗すべく私たちを数に入れようと探しに来た、らしい。倫ちゃんも私も、二人の子供っぽい騒ぎにちょっと呆れて顔を見合わせてしまった。そこが柚宇の可愛いところでもあるし、当真の憎めないところでもあるのだけど。
「ねえ〜倫もこっちはキャップ被んない方がいいと思うよね?」
「うーん、まぁこれは……」
 意地でも味方につけようと、柚宇がぐいぐいと倫ちゃんに迫っているその隙に、私はこっそりと背中を振り返った。柚宇の後ろを歩いていた二人はどうしただろう、と気になったのだ。
 当真と荒船の二人はまだ、入り口と私たちのテーブルの中間くらいを歩いていた。当真がけらけらと笑って、荒船が少し怒ったように何かを言い返している。ここからでは話の内容は聞こえない。でもどんどん近づいてはいる。柚宇の登場で一旦は引っ込んだはずの、不安な心がまた顔を出してきた。
 荒船とまともに話をしたのは、あの帽子の話をした日以来、一度もない。鉢合わせそうになったら、さりげなく別の道を行くことにしたりだとか、どうしても顔を合わせなくてはならなかったら、軽く挨拶だけをして、用事を急に作ってその場を後にしたりして、長時間二人きりになるのを、こっそり凌いでいた。倫ちゃんにはそれを、大袈裟に避けていると言われてしまったので、もしかしたら、荒船にも何か変に思われているかもしれない。連鎖的にマイナス思考になる。ああ、ますます顔を合わせづらい。
「ね、もそう思うよね?」
「えっ?」
「これ!このコーデだったらキャップなしの方が可愛いよねっ?」
「おーい、無理矢理味方につけようってのはずりぃぞー」
 遠くから柚宇に呼びかけるように張り上げた当真の声がして、どきり、とする。私たちの声も、向こうの声もお互い聞こえる場所に居るんだと思うと、変に手に汗にぎってしまう。
「無理矢理じゃないもん、もちゃんと理由があって私とおんなじ意見なの!」
 ねっ!と私に同意を求める柚宇が、これ見て、と誌面の一部分を指している。よくわかんないけど、柚宇はこの瑠衣ちゃんのコーディネートに、帽子は反対派、らしい。とりあえず柚宇の肩を持っておけばいいか、なんて考えた私は、誌面の瑠衣ちゃんを見て、何か適当に帽子に反対する理由を探そうと思った。
 夕焼けに染まる街中を背景に、瑠衣ちゃんはこちらを振り返っていつものツンと澄ました表情を浮かべている。多分、デートの帰りとかそんな設定がありそうな写真だった。瑠衣ちゃんは話してみると妹みたいに可愛いけれど、こういう雑誌で見ると別人のようにとっても大人びた雰囲気を出していて、それがなんだか誰かを彷彿とさせる。そう、外から見る分には一見クールで、冷静に見えて、でもその実、模擬戦やランク戦では熱い一面を見せ、話していると笑ったり怒ったり感情表現豊かな荒船のような──いやいや、今はそれどころじゃない。理由、理由。
「えーと、あ、ほら、瑠衣ちゃんの茶髪、つやつやでサラサラだから……キャップ被んない方が、夕陽にキラキラして綺麗じゃない?」
「ほら〜!もこう言ってる!」
 私の言葉を受けて、柚宇が得意の笑みを浮かべて私の後ろへと視線を向けた。当真と荒船は、すぐそばまで来ていたらしかった。その証拠に、当真が不満そうに「その理由、服とかと関係なくね?」と柚宇に言い返しながら、テーブルの脇にまでたどり着く。けれどやっぱり、荒船の方を振り返れずにいる。段々といたたまれなくなってきた私は、倫ちゃんにどうしよう、と視線で訴えようとした。その時だった。
 ガシッと肩を掴まれて、引っ張られて、びっくりする間もなく私の視界にいつもの、帽子を被った荒船が映ったかと思うと、彼はハッキリと私に言った。
「──見つけた」
 一瞬、頭が真っ白になった。隣にいた当真が「はぁ?」とすっとんきょうな声を上げた。私の向かい側に座っていた柚宇が「何を?」と不思議そうに呟いた。そしてその隣にいた倫ちゃんだけが、少し経ってから「……えっ、まさか、」と何かを悟ったような声を出した。それにつられて、私の思考も徐々にクリアになる。見つけたって、今、見つけたって、言った。それは、もしかして。
『次に会った時に、荒船君にその初恋の子を見つけたって報告されるのが怖くて会いたくないんだ』
 じわりと一度滲んだ痛みは瞬く間に広がった。心だけじゃなく、いつの間にかくっきりと見えていたはずの荒船の姿さえぼんやりとしてきて、冗談でなく、泣きそうになっている自分に気付いた。でも仕方なかった。私を振り向かせた荒船の表情を見たら。
 どうして、なんで、そんなに嬉しそうに私に言うの。
「は、お前なんで泣いて、」
 動揺が感染したように、荒船が戸惑った声を出した。そして、隙ができて緩んだ彼の手が、私の肩口からふわりと離れる。それに気付いたと同時に、私はその場から走り出していた。
「あっ、おい、待て!」
 後ろで荒船がそう叫んだような気がしたけれど、今更立ち止まることもできなくて、夢中で駆けた。前後左右気にしないで走ったせいで、よくよく誰かにぶつかったけれど、気にしていたら実体で走っている私は、すぐにでもトリオン体の荒船に追いつかれてしまいそうだった。
 どこへ行こうとも決めもせず走った先にたどり着いたのは、ボーダー本部の中でも解放感あふれるスペースのひとつ、ラウンジだった。隊員や、研究職の人たちがまばらに居る。その中で、ひとり、見知った顔を見つけて、私は思わずその人に駆け寄った。
「す、諏訪さん!」
「あ?──ああ、か。なんだ急にでけぇ声出しやがって……」
「ちょっと隠してください!匿って!」
「ハァ?」
 テーブルの上に山積みのファイル、机の傍にはいくつかの段ボールがある。何か大変な仕事をしているのだろうとはわかったけれど、これを使わない手はない、と咄嗟に思った。飛び込むように机の下に入って、段ボールの横に隠れるように身を潜めた。諏訪さんが身を屈めて、怪訝そうな顔で私に「遊んでんじゃねえだろーな」と睨んでくる。
「お願いしますっ!私いないって言って!」
 祈るように両手を合わせて必死にそう頼むと、少し迷ったのち、諏訪さんは渋々といった感じで屈めていた体を元に戻した。誰に言うんだよ、とかぼやいていたのも聞こえたけれど、とりあえず私の願いを聞き入れてくれるらしい。助かった、とほっと一息ついたのも束の間、バタバタと走る足音が聞こえてきた。その足の主は、このテーブルのすぐ傍で立ち止まる。
「お?どーしたお前、そんな急いで」
「諏訪さん……、こっち来てません?」
 荒船だった。声を聴いた瞬間、私は慌てて走ってきて荒くなっていた呼吸を、口元を手で覆って止める。
「……来てねぇけど?」
「ホントすか」
「俺はなぁ!ガキの追いかけっこに付き合ってられるほど暇じゃねえんだ!」
 半信半疑の荒船の言葉に、諏訪さんがバシバシとテーブルを叩いて声を荒げる。ここにある書類を見てわかんねぇえのか、とでも言いたげに。周りに新人の隊員でもいたら、怖くて逃げだしてしまいそうなおっかなさだ。
 さすがの荒船もそこまで言われては反論できなかったのか、その足がくるりと踵を返して遠ざかろうとしている。
「じゃ、アイツ見つけたら教えてください」
「おーおー、教えてやっからさっさとあっち行きやがれ」
 スタスタと遠ざかっていく足音に、私はふう、と大きく息をついた。それからまたしばらく待って、のそっと机の下から顔だけを出してみる。この机の周りに、荒船の姿はなかった。なんとかやり過ごせたことに胸をなでおろしていると、頬杖をついて私を観察していた諏訪さんが、「で?」とこれまたガラの悪そうな声を出した。
「これでホントに遊んでたんなら容赦しねえぞ」
 諏訪さんが半分笑いながら、半分怒ったような口調でそう言った。荒船から逃げている理由は何だと、尋ねられている。しかも諏訪さんの納得するような理由じゃなかったら、今すぐにでも荒船に連絡されてしまいそうな雰囲気だ。ここは正直に言うしかない、と私は腹をくくる。
「……笑わないで聞いてくれます?」
「何絡みだ」
「……れ、恋愛です」
「おい、長ぇのかそれ」
「一言じゃ無理です」
 私がそう答えると、諏訪さんは一瞬考えるように空を見つめ、それから立ち上がってテーブルの上のファイルを片っ端からかき集め、脇に積んであった段ボール箱に乱暴に投げ入れた。それから立ち上がって、積まれていた箱のひとつを私の目の前にドン、と置いた。
「それ持って着いて来い」
「え?」
 諏訪さんは、私に端的に指示をして、すぐに残っていたもう一つの段ボールをよいしょと抱え、私を振り返る。
「どうせここじゃ話しにくいんだろ。場所変えてやるって言ってんだよ」

 諏訪さんが私を連れてきたのは、ラウンジからしばらく歩いたとある資料庫だった。部屋中に設置された、天井まで届きそうな高い書棚にはファイルや本がたくさん並んでいて、さながら学校の図書室のようにも思えた。ボーダー本部での資料といえば、大抵がデジタル化された記録媒体での扱いだったから、こんな部屋があるとは知らなかった。
 物珍しさできょろきょろとあたりを見回していると、奥に進んでいた諏訪さんが「こっちに荷物置け」と私を呼ぶ。書棚の合間を縫って中へ進むと作業用のテーブルがあり、その一角に諏訪さんが段ボールを半ば放るように置いて、近くの椅子にどっしりと座りこんだ。私もそれに倣い、持ってきた箱をテーブルの上に置く。
「資料の整理……ですか?」
「ああ、昨日からな。どうもここにいると狭っ苦しい感じがしてさ。今日は気分代えてラウンジにいたんだが……まぁ、どうせここにこれ戻さなきゃなんねーし」
 箱の中からファイルや書類を取り出しながら諏訪さんが説明する。
「結構何年も放置されてて、番号順にファイリングされてなかったり、関係ない書類が混ざってたりすんのを直すだけだから。ついでだ、お前も手伝え」
 ん、と顎で空いている椅子を指し、座れと言われる。言われるがままに、そこへ腰を下ろし、持ってきた段ボール箱を広げて中身を取り出した。私が運んでいたのは、先程諏訪さんがラウンジで作業していたファイルらしく、まだ番号順に書類を入れ替えている途中のようだった。やりかけのその仕事から私がスタートし始めると、テーブルの角を挟んで、向かい側に座った諏訪さんに「お前、今日防衛任務は?」と聞かれた。
「私は今日はないです」
「そうか。俺は夕方だから──あー、あと二時間くらいか、それまでだな」
 諏訪さんが片手で携帯を持ち、時間を確認しながらそう言った。二時間。諏訪さんとここに居るその二時間のあいだは、荒船とは顔を合わせなくて済むことになるだろう。でもその後はどうしよう。明日は、明後日は。あんな醜態を晒してしまったけれど、いつまでも逃げ続けるわけにもいかない。
「……で、荒船とどーしたんだよ。んな辛気臭ぇ顔して」
 サクサクと指を動かして操作をしていた諏訪さんだったけれど、やることは終えたのか、携帯を脇に置いて再び仕事の片手間に話を切り出してきた。
「いつもアイツといるときは馬鹿みてぇにヘラヘラしてるくせに」
「へ、ヘラヘラなんてしてませんってば」
 まるで倫ちゃんと同じようなことを言うものだから、私は一瞬ドキリとする。倫ちゃんには私の気持ちを打ち明けたことがあるからまだしも、諏訪さんはそうじゃないのに、と冷や汗をかいた。けれど諏訪さんはあっさりと「惚れてんだろ」と私の秘密を見透かしていた。
 なんで、と手が止まってしまった私を気にすることもなく、諏訪さんはファイルをパラパラと捲り続けながら話している。
「別に誰に聞いたとかじゃねえぞ。見てりゃ分かんだよ」
 手ぇ動かせ、とも付け足しながら、諏訪さんはそう言った。
 年の功とでもいうやつなのだろうか。それとも、後輩には面倒見のいい諏訪さんだからこそわかったことなのだろうか。どっちも、な可能性もありそうだけど。
 なんだか諏訪さんには今更色々隠そうとしても難しいのかもしれない、と敵わない何かを感じていた私は、これ以上反論することも、疑問を持つことも諦めて、口を開いた。
「……この間、荒船に初恋の女の子がいるって話を聞いたんです。本人は、そんなんじゃないって言ってたんですけど……話してる顔とか見てたら、多分、好きだったんじゃないかなって」
「ほーお」
「ずっと昔に出会った女の子なのに、最近なんだか思い出すようになったって。だからどこかで、知らないうちに再会してるのかもって言ってて」
「へえ」
「その話聞いたとき、私、見つけたら教えてねって冗談半分で言ってたんですけど……本当に見つけたらしくて、さっき、そう報告されて」
 見つけた、と嬉しそうに私に言った荒船のことを思い出して、またズキッと胸が痛くなる。
「初恋って、特別じゃないですか。荒船もすごく嬉しそうに言ってて、だから、きっとその子は荒船の特別な子になるんだと思ったら、なんか、惨めに思えてきちゃって……」
「アイツの目の前でうっかり泣いちまったから咄嗟に逃げてきたってところか」
 諏訪さんの言葉に、とっくに乾いたと思っていた目元を私は思わず触った。自分の中の感覚では泣いた名残があるけれど、外にそれが残っているのか、と慌てて目尻を拭う。もしかしたら、ラウンジでテーブルの下に潜り込んだときにもう、気づいていたのかもしれない。だから匿ってくれたのだろうか。あの時は走ることに必死で、顔も髪も全く気遣う余裕がなかったから、ボサボサのひどい髪とぐちゃぐちゃのどうしようもない顔でいたのかもしれなかった。
「で、その初恋?の奴は誰なんだよ」
「そんなの聞いてませんよ。まぁ学校の同級生の誰かだと思いますけど……」
「高校のやつなのか」
「たぶん。その子のこと、高校に入ってから思い出すようになったって言ってましたから」
「あれ、お前ら今何年だっけ?」
「高三ですよ。入学したのは二年前です」
 まだ、新しい高校の制服が着なれなかった一年生の頃を思い出す。ボーダーに入ったのもその頃だった。学校と、仕事場と、新しい環境にあたふたしていた時期だったけれど、新しく知り合いがたくさんできて楽しくもあった時期だった。今に至るまで仲の良い倫ちゃんや柚宇たちオペレーター組や、当真や荒船といった戦闘員組と出会ったのもその時だ。
 ちょうど手元のファイルの中に、基本トリガーの性能が書かれた書類が数枚出てきたこともあって、あの当時が懐かしく思えた。何がどうしてこんなすごい技術が、と感動したものだ。
 でもこの書類は、今私がまとめているランク戦の地形についてのファイルにはふさわしくないので、ひょい、と取り出して諏訪さんに見せる。
「あの、このトリガーの資料をしまうファイルってどこですか」
「あー……それ昨日見たな。確かここ進んで、二列目の棚の、一番上の段見てくれ」
 こっち、と彼が指差す通路へと、私は書類を持ったまま歩いていく。棚の合間にところどころ付箋のようなシールが貼ってあり、何がどこに分類されているかはざっくりとだがわかるようになっていた。その文字列をたどりつつ、諏訪さんに言われた上の方を探す。首をうんとそらしながら探して、ようやく見つけた。
「そこにボロい脚立あんだろ、それ使え」
「はーい」
 天井近くまでそびえる高い書棚は、見えこそすれ手が届くはずもなく、先輩に言われた通り、傍に無造作に置かれていた脚立を引っ張り出す。ギシギシとおんぼろらしい音は出たけれど、しっかり広げてみれば高さも安定感も申し分ない代物だった。
 段のてっぺんまで上って届いた先の区域に仕舞われたファイルは無数にある。どれも背表紙にはなんのヒントもなく、片っ端から開けて中身を確認しなければならなかった。骨が折れそう、とため息をつく。
さあ」
「はい」
 ひとつめのファイルを取り出しているところで、棚の向こうから私に呼びかける諏訪さんの声が聞こえた。
「その、初恋の女ってのになんでそんな尻込みしてんだよ」
「だって……初恋ですよ?特別っぽいじゃないですか」
「その妄想はお前の頭ん中だけだ」
「でっでも、荒船は覚えてたし、今も、だんだん、思い出し始めてるんです!それに、私に見つけたって話しにきた時、なんかすごい優しそうな顔してて、ああ、大事な子なんだなって……思ったし……」
 最後まで言い切れないまま、私の言葉がフェードアウトしていく。
「初恋だか特別だかなんだか知らねえけどよ」
 パラリ、とファイルを捲る音と、スッと紙の擦れる音の隙間から、諏訪さんの少し呆れたような口調が聞こえた。
「あの時だけは、お前の方が大事だったんじゃねえの」
「あの時?」
「荒船がお前追っかけてきたときだよ」
 棚からまた別の一冊を取り出そうとしていた私の手が、ふと止まる。
「どうでもいい女泣かしたくらいじゃ、男は必死になって追っかけてこねえぞ」
 待てと言われて待たなかったし、ずっと振り返らずに走り続けていたから、荒船がどんな表情をしていたかわからなかった。テーブルの下に隠れていた時も、バレないようにと思うことに必死で、荒船がどんな声で諏訪さんと話していたのかさえ、もうよく思い出せなかった。それでも、諏訪さんの一言は、私にちょっぴりの希望を持たせてくれた。
「お前はどうなんだよ?荒船は、お前にとってどうでもいい男なのか?」
「ど、どうでもよくないです!」
「じゃあ何だよ」
 何だろう。私にとって、荒船ってなんなのだろう。友達のような、仲間のような。それでも特別に思われたいという気持ちもあって、それは恋する意味を持つ好き、でもある。
「……大切で、大好きです」
 ぎゅっと、ファイルの背を握っていた手に力が籠る。これが本人に言えたら苦労しないんだけど、と自分の不甲斐なさに呆れつつ、掴んだ一冊を取り出そうとしたとき。
「──だとよ」
 聞こえてきた諏訪さんの言葉は、なぜか私を通り越していた。諏訪さんに返したはずの私の言葉を、先輩は、ポンッとどこかへ放り投げてしまったような。嫌な予感がして慌てて振り返ってみると、書棚の角から、ゆっくりと荒船が姿を現した。
「……!」
 どうしてここに、とかいつからここに、とか、ぐるぐる頭の中を巡る疑問で、動揺が声にならない。そしてさっきまで逃げていたせいか、体が無条件に一歩後ろへ下がろうとしてしまった。片足が、ふわりと空を切る感覚に心臓がヒヤリとして、その時ようやく自分が、高い脚立の一番上に上っていたことを思い出したのだけど、時すでに遅く。
「えっ、わっ」
「あっ、馬鹿おまえ、」
 もう一度脚立に足を戻そうとしたけれど、叶わなかった。ふらりと崩れた体のバランスの向こうで、荒船が走り出すのが見えた。それを最後に、受ける衝撃の怖さからぎゅっと目をつぶった私は、ゴツン、という痛い音を聞くと共に意識を手放した。


 ようやくだった。今まで事あるごとに感じていた、些細な点が、ようやくすべて綺麗に一本の糸に繋がった瞬間だった。

『イヤなら、これ被る?』
 両親ともに典型的な日本人のはずなのに、なぜか俺の髪色は色素の薄い茶色をしていた。生まれた頃からの、変えられないものだった。それが原因で周りにいじめられたとか、なにか不都合があった訳ではなかったが、とかく俺はそれが好きではなかった。この年にまでなれば、髪色なんて自由気ままに変えられるようになるが、その時はまだ年齢を片手で表せるガキだったせいで自由も効かず、ただむくれた顔をするしかなかった。
 えい、っと俺の頭に、自分が被っていた帽子を被せた少女は、綺麗な黒髪をしていた。誰かのお下がりで、デザインが気に入らないとぼやいていた帽子は確かに男物で、少女のお気に召さないというのも頷けた。でもその日は確か一日中日照りが続いていて、熱中症対策にと彼女の親が被せたのだろう。それも、日が傾いて周囲がオレンジ色に染まりつつある時分では、必要ないと判断されて、少女の頭から俺の頭へと鞍替えされたけれど。
『うん、似合ってる。……でも私、君の茶色い髪も素敵だと思うけどなぁ』
 嫌なら隠せばいい、と帽子を被せられ、俺の茶髪がすっぽりと隠れてしまうと、少女はその出来栄えに、よし、と満足げに頷いた。俺も、その時その年齢にできる手段の中では、一番満足のいく解決策だったから、気に入って、以来帽子を好んで被るようになった。歳を重ね、当初の目的である髪を隠すことに然程執着がなくなっても、気に入ったデザインがあればプライベートでも被るようになっていたし、隊服を好きに選べると聞いたときも、気がつけばキャップを選んでいた。
 そんな最初の些細なきっかけは、とっくに記憶の奥に埋もれていたはずだった。でも高校生になって、ボーダーに入って、私服以外で帽子をよく被るようになって、なんとなく思い出し始めた。そういえば、あんな子と会ったこともあったな、と。
 ふと帽子を手に取った時とか、周りから、お前は帽子似合うよなと褒められた時とか。それまでそんなことはなかったのに、なぜだかあの小さなきっかけを思い出すようになった。青空と夜空の間に漂う夕暮れの中で、俺の頭に帽子をのっけてくる少女の面影がちらつくようになった。あの日の景色、あの時交わした言葉、少女の表情、自分の感情。どこに隠れていたんだと驚くくらい、ポロポロと思い出していった。
 記憶がよみがえるほどに、その少女の雰囲気が、まるで誰かを彷彿とさせる。初めての気がしないと感じる。記憶の中の少女に似た雰囲気を持つ女に、近頃どこかで会ったような気がする。
『荒船って帽子好きなの?いつも被ってるよね』
 に先日そんな話を振られ、きっかけが人に貰った帽子であったことを話した。相手が異性だったということを聞いたは、どこか意味深そうにこちらを見ては「それ、初恋だったりして」とからかってきたが、別にそんなんじゃねえよ、と一応釘は刺した。効いていたかは定かではない。
 思えば、そうして語るのは初めてのことだった。なんで余計なことまで話しちまったんだか、と後になって後悔したものの、その時ひとつの可能性に思い至った。
 どこかで会ったことがある、どころか、さっきまで話していた奴がそうじゃないのか?
 名前を聞いてもピンとこない。それもそうだ、俺はあの日、彼女の名前を聞いてはいなかった。でもそういえば、笑った時の雰囲気が、似ているような気がしなくもない。どうして二年前から急に思い出すようになったか、それは二年前にとボーダーで出会ったからじゃないのか。
 それは殆どバラバラのピースだった。足りないものが多すぎて、確証がなくて、完成しようのないパズルだった。しかもどうしてか、あの話をした時から心なしか、とすれ違うようになった気がする。欲しいピースに手を伸ばすことすらできない。
「お前、なんかやらかした?」
 食堂で折角見かけたは、俺と当真を見るなりすぐにふいっと顔を背けてしまう始末。あげく当真がからかうように俺にそんなことを言う。
「うっせーな、やらかしてねえ」
「どうだか。女って繊細だから、気を付けた方がいーぜ」
 冬島隊長の受け売りだとかいう親切な説教を受けたものの、俺は話半分にしか聞いていなかった。
 思い出し始めていた夕陽の中でのあの少女との記憶は、俺の忘れられない恋だとか人だとか、そんなものではない。今、現在進行形で振り向かせたい奴はいるし、どちらかを選べと言われたら、勿論今を選ぶ。
 でももし、そのどっちもが同じ奴だったとしたらと考えると、思ってもみなかった巡りあわせに希望が湧く。そうだったらいいと、なぜだか思う。あの時抱いたのと同じ気持ちを、今自分が持っていることに、しっくりくる。
『うん、似合ってる。……でも私、君の茶色い髪も素敵だと思うけどなぁ。ほら、夕陽にキラキラして綺麗じゃない?』
 聞こえてきたの声が、いつかの思い出と重なって聞こえた。
 夕陽、キラキラ、綺麗。話題こそ違うだろうが、当時俺の髪を見て言った言葉と一言一句変わらぬもので、偶然じゃない、と瞬間的にそう思った。衝動的にを振り向かせた。確かに、あの時もっと言葉を尽くして説明することができていれば、泣かせることもなかったのかもしれない。当真の言う通りだ。女は繊細で、思ってもみなかった方向に思考を持っていきやがる。
 突然涙を流したに戸惑って、追いかける足がワンテンポ遅れたせいで、途中までは掴んでいたはずのの足取りを見失う羽目になった。けれど救いの手は意外とすぐに俺の下に届いた。アイツの隠れそうな作戦室や訓練場を逐一確認して回ろうと決意したところで、先程あしらわれたはずの諏訪さんから俺の携帯にメッセージが届いたのだ。そこには、俺たち戦闘員には縁のない資料庫にいることと、なぜか黙って入ってこい、の指示があった。資料庫にたどり着いて、中へと音をたてないように入って、聞こえてきたの声に、諏訪さんの意図がようやく分かった。
 諏訪さんが、ごく自然にの気持ちを誘導するように話しかけていた。これを聞いて、拗れてるところがあるならお前が直してやれ、とでもいうことだったんだろう。世話焼きな諏訪さんらしい発想には敵わないと思った。が、最後の最後、俺が話を聞いていたことに動揺したが、脚立から足を踏み外して落っこちるアクシデントだけは、予想外だったけど。
「なんでこういう時に限って換装してねえんだか……」
 医務室まで運ばれたは、頭に大きなコブを作ったまま、まだ意識が戻らずにいた。在中していた先生に異常はないと診断されたが、案の定頭は包帯でぐるぐる巻きにされている。大怪我した入院患者みたいなナリでベッドに寝かされていた。
「じゃあ荒船君、ちょっと報告しに行ってくるから、さん看ておいてあげて」
 数分前にそう言って出ていってしまった医師のいない医務室は、のささやかな寝息が聞こえるだけだった。ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けてその寝顔をなんとなく観察する。と、微かに睫毛が揺れたような気がした。
「……あれ、」
「起きたか」
 パチパチ、と数度瞬きをしたあと、の視線が俺の方へと向いた。まだ現況が把握できていないようだったが、念のため、と先生から言付かっていた質問をぶつける。
「確認するから答えろよ。お前の名前は?」
「え?あ、……です」
「1+1は?」
「に」
「ボーダーの最高指令官は?」
「指令官……城戸指令」
「俺とお前の関係は?」
「かんけ……え、えっ!?」
「よし、問題があんのはそこだけだな」
 基礎知識の確認をして、最後、出来心でそんな質問を滑り込ませた。案の定、がわたわたと騒ぎだしたので、今度こそ逃げないようにと、俺は椅子から立ち上がって、枕元の空いたスペースに半身腰掛けた。
「頭打ったんだから騒ぐなって」
 忠告虚しく、慌てて起き上がろうとしたが「いった!」と痛みに呻き、再び枕にぽすん、と逆戻りする。しかし、その頭がベッドに収まったかと上から眺めていたら今度は、見るなと言わんばかりに掌でその顔をパッと隠してしまった。
「……あの、」
「ん?」
「私の記憶だと、その……諏訪さんと資料庫で話してて、そしたら脚立から落っこちたような気がするんだけど」
 全くもってお前の記憶通りだと頷いてやれば、はごくりと息をのむ。
「その……あの時、荒船もあそこに居たような気がしたけど、それは気のせいだったり……」
「よく覚えてんじゃねえか。気のせいじゃねえよ」
 諏訪さんに呼ばれた経緯をざっくり話してやると、「諏訪さんの馬鹿……」とぼやく声が聞こえた。あの人の名誉の為に言っておくと、ここまで一緒にを運んでくれたのは諏訪さんだったし、多分防衛任務がなければ今もここにいたんじゃないかと思う。それぐらい心配もしていた。が、それは後で伝えるとしよう。今は正直、それよりもに話したいことがある。
 今更換装を解くのも面倒だったので、帽子だけを脱ぐ。思えば、こいつに会う時はいつもトリオン体だったか、帽子を被ったままだった。だから、思い出してもらえなかったのかもしれない。
「よく覚えてるついでに、お前に思い出してほしいことがあんだけど」
 はいまだ顔を隠したまま、黙秘の一点張りだった。
「こっち──俺の顔、見ろ」
 片手首をきゅっと掴んでどけてやる。覗き込んだ俺と、こちらを見返すとの距離はいつもより顔一つ分くらい近い。目元をほんのりと赤く染めるの顔に、妙な気分が伝染しそうだった。けれど、「あれ……?」と何かに気付いたような声を発したの反応に、俺は言葉を続けた。
「ガキの頃、誰かに帽子やった記憶ねぇか」
「……うそ」
「俺の髪見て、夕陽にキラキラして綺麗だって言って、笑ってた奴のこと、思い出さねえか」
 俺に取り上げられないまま残って顔を覆っていたもう片手が、するり、と力なくの顔の脇へと落ちていった。
「お、思い出した……」
「じゃあ俺が『見つけた』って言った意味、わかったかよ」
「……!」
 大きく目を見開いて、最初は驚いたような表情をしていたはずのが、次第にその瞳をうるませていく。げ、また泣きそうだコイツ。
「荒船だったんだ……私の、」
「……私の?」
「あ!や、いえ、なんでもない」
 何かを言いかけたその先を尋ねようとするも、は慌てたように首を振って口を噤んだ。動いたせいで、さらりと揺れた髪の隙間から、さっきの比じゃないくらいに真っ赤になった耳元が見える。
 帽子を貰った話をした日から、なんとなくが俺を避けていた理由とか、俺が「見つけた」ことに泣いてへこんだ真意とか、それが誤解だと知って真っ赤に照れている現状だとか。さっきのさっきまでわからなかったの、その全てに答えが出る一言を、俺はあの資料庫で耳にしてしまった。
 どうでもよくないのも、大切なのも、大好きなのも──それはこっちだって。
 そう思う気持ちを、どう伝えてやれば誤解も何もなく届くだろう。見下ろした先の、少し涙を滲ませている女の瞳を見つめながら考えた。どことなく感じる幼い頃の面影に、そういえば俺は、おんなじ奴に二度も心奪われたのだと実感する。
 特に忘れられなかった思い出とか、そんなものではなかったはずなのに。偶然にも再会したばかりか、好きになってしまうなんて。
「お前さ、初恋は特別だとか言ってたじゃん」
「やっぱ……聞いてた……!」
 悔しいのか、恥ずかしいのか、がどっちともつかない口調でぼやく。
「確かに、と思った」
「……?」
 ぱちぱちと、目の前の瞳が何度も瞬きを繰り返す。が俺の言葉を理解するのに戸惑っていて、その間に、まばたきによって溢れてしまった涙の筋が、つう、と彼女のこめかみを流れていく。彼女が泣こうとして流れた涙ではなかったせいか、俺はその雫を心穏やかに指で拭ってやった。
 これを聞いたらまた、は泣きそうになるんだろうな、と大方予想がつくようになった。けれど今度は、それが嬉し涙であればいいと、密かに祈りつつ。
「俺……お前のこと、また好きになってたみたいだ」

めぐりあいて

9th,September,2016
Happy birthday for Arafune