「おい、起きろ寝坊助」
「……これはない、ありえない」

ベッドで快眠を貪っていたはずの私が、彼のトゲの含んだ言い草をしっかり聞き入れたのは他でもない、その言葉の発される数秒前に私の体にぼすん、と何か重さのあるものを乗っけてきたせいである。お腹に響いた鈍い感覚にハッと目が覚めて、瞳を開いた先にいたのが幼馴染の男だったからには、私だって顔をしかめる羽目になる。ここは間違いなくボーダー本部の、女子用の仮眠室であるのだ。男子がそうやすやすと足を踏み入れていいはずがないのに、我が物顔で私の寝ているベッドに腰を掛けてはいつもの帽子の下からつん、と澄ました顔で私を見下ろしている。そんな視線に小さくあくびを噛み殺しながら、私はよっこいせ、と体を起こす。そこでようやく、腹部に感じた重さの正体は他のベッドにあるはずの枕だった事にきづく。勢いをつけて彼が私のお腹に落としてきたに違いない。異性への配慮とかってものをこいつはどこへ落としてきたのだろう、と半ば睨むように見返しながら、私は文句を言った。

「ここ女の子のベッドルームなんですけど?」
「お前の名前しか載ってなかったんだから別に問題ねえだろ」

けろりと言い返した荒船の言い分は多分、仮眠室の入り口にある掲示板のことを指しているのだろう。現在仮眠室を使用中の者の名前が表示されるそれだ。有事の際に備えて誰が仮眠室を使用しているか明白にするためだとかで、部屋に入る際には必ず個人を特定できるトリガーでチェックされるのだ。それによると今は私一人の貸切状態だそうで。確か、私がこの部屋に入った時もそうだったような。ぼんやりと眠りに入る前の記憶を洗いながらそんなことを思う。まぁ、午前中からこんなところでぐうすか寝息を立てる呑気な人間はそうそういないのだろう。もっとも、私だって昨夜の防衛任務で寝ていない分の睡眠を頂いている、という建前はしっかりある。

「ひどい、私もれっきとした女の子なんですけどご存じないですか」
「寝相が悪くて地震が起きてもただじゃ起きねえ図々しい女だってことはよーく知ってる」
「サイッテー、私のプライドなんだと思ってるの?」

むっとなって思わず手元の枕を投げてみたけれど、案の定素晴らしい反射神経で弾かれてしまった。呆気なく布団の上へと落下した白い枕が空しくなって、私はもう一度胸元に引き寄せる。
仮眠室にも私のプライドにも文字通りずかずかと踏み込んでくる幼馴染とは、何十年という付き合いになる。幼稚園、小学校、中学校共に同じ場所へ通い、高校からは別の学校へ通い始めたけれど住む家が近くにあることと同じボーダー隊員として活動していることで、荒船との腐れ縁は相変わらず続いている。お陰様で寝相が悪いだのなんだのと酷く言われることにも慣れてしまった。慣れてしまったけれど、やはり傷つくものは傷つく。私だって一介の女の子なわけで、それなりに女子としての矜持がある。寝相が悪いとか図々しいとか、そういうことを指摘されるのはやっぱり耳が痛いし、それを他の誰でもない荒船に言われるのはプライド以上に痛手を負うのである。幼馴染だ腐れ縁だのと数十年付き合ってきたせいか、こいつが隣にいることは私にとってとても当たり前なことになってしまったせいだ。──つまるところ、傍に居てほしい、だなんて淡く願うようになってしまったのである。

「んな今更なことに文句言ってんじゃねえよ」
「今更でもなんでも!女の子の傷つくようなことは言っちゃいけない!」
「お前がオンナノコ、なぁ……」

やれやれ、といったふうに呆れる荒船に、私は悔しさに枕を抱きしめる腕に力を入れた。やっぱりというか案の定というか、私と荒船の間には、ただの幼馴染以上に高まる何かはないことを思い知らされたからだ。それは普通の女友達よりも近い距離なのかもしれないし、荒船をかっこいいとか素敵だと言って憧れる周りの女の子たちからすれば羨ましい距離なのかもしれない。けれど私にとっては、持て余すだけの距離に過ぎなかった。こんなに近いからこそ好きと気付いたはずなのに、それ以上の近づき方がわからないのだ。どこに枕を投げれば、荒船の目を覚まさせることができるのか、皆目見当もつかない。私もどこかの誰かさんに想いを寄せる女の子の一人なんだってことを、どうしたらわかってもらえるのだろう。

「もういい。デリカシーのない荒船なんてだいっきらいだ」
「おい今なんつった」
「もいっかい言いましょうか!だいっきら──」
「午後から新人訓練の担当者会議があるってのにすっかり忘れてぐうすか寝こけてたどっかの輩をわざわざ起こしに来てやった俺のことがなんだって?」

げっ、と思わずこぼしてしまった私が、女の子がなんだのと言う資格はないのだと、すぐに悟る。思わず腕時計を見ると、十二時になる数十分前。会議はおろか、まだ昼食にも余裕がある時間だった。焦った心臓は一度ほっと落ち着いたのだけど、荒船が起こしに来てくれなかったらどうなっていたことかと考えては再び背中にひやりとした何かを感じることとなった。

「俺に何か言いかけてたよな、何だよ」
「うっ……わーわー文句を言ってすみませんでした……」

完全に白旗を上げるしか選択肢のない結果となり、私は大人しく頭を下げた。そのままぽすん、と手元に抱える枕に頭を突っ込む。地震があっても起きないほど眠りの深い私が、電話やメールの着信音なんかで目が覚めるはずもない。だからわざわざ仮眠室に足を踏み入れてまでこうして直に起こしに来てくれたのだろう。会議の直前の時間に起こさなかったのは、お昼ご飯を食べる余裕も考えてのこの時間にしてくれたに違いない。そう考えるとデリカシーとか女の子が傷つくとか、そんなことばかり言い張っていた自分が少し恥ずかしくなって、なかなか頭を上げられなかった。なんだかんだいうくせして、こういう風に優しくしてくるのだから、私は弱い。
そんな私の髪の毛を、誰かが撫でつけるように触れてきた。誰とは言わずもがな、荒船しかいないのだけど。

「ひでえ寝癖がついてんぞ」
「……荒船の言うとおり、寝相がアレなもので」

ヤケになった私の言葉にくすくすと笑う声が聞こえる。ひどい寝癖も寝相も、今更荒船に隠すことなんてできっこなくて、そんな私が世のつつましい女の子のように扱われることを望むのはやっぱり叶いっこない願いなのかもしれない。好きな相手には寝癖のついた髪型なんかじゃなくって綺麗に整えたヘアスタイルを見せたいし、あわよくば褒めてもらいたいなとか思うのだけど、彼の言う通り、そんなこと今更なのである。笑い飛ばしてくれるだけまだマシなんだろう。
だが、荒船にどう思われるかはこの際諦めるとしても、この後に控えた新人訓練の会議によもやこのままの姿で出て行こうと思えるほど図々しいわけでもない。時間が許す限り身なりは整えていきたいし、その為には寝癖なんぞもっての外なので、荒船に笑われた私の髪型がどの程度のものなのか、携帯を鏡代わりにして現状を確認した。

「わっ、なんでこんなとこハネてんの」
「あとココと、こっちも」
「え、え、思ったよりひどい……いっそ髪洗いたい……」

携帯を握りしめてそうぼやいた私に、荒船は「そんな時間はねえ」と一刀両断してしまう。私の髪の長さから、3分で洗い終える、なんて容易い長さではないのをしっかり見取ったのだろう。現実的な考えではないことは私も百も承知であるのでそれ以上食い下がることはしなかったけれど、どうしたものかと悩む思考は止められなかった。するとしばらくして、私の悪あがきを眺めていた荒船が、トレードマークともいえる自分の帽子をひょい、と脱いだかと思うと、私の頭にぽすん、と軽く乗っけてきた。

「お?」
「それ、かぶってりゃなんとかなんだろ」

早くかぶれとでも言わんばかりに、荒船が帽子のつばをぐいっと押し付けて、私の頭にすっぽり被せた。力が強かったせいか、視界が半分くらい隠れてしまったので慌ててつばを上向きに整え直す。再び私の目に見えることになった荒船は、どこか満足そうに鼻を鳴らし、腕組みをして私を見ていた。なるほど、ナイスアイディアだ。帽子をかぶってしまえば寝癖もさほど目立たない。鏡代わりにしていた携帯でもう一度それを確認する。自分の隊服には勿論設定していないし、私生活でもキャップなんて普段滅多に被らないせいか、そこに映る自分の姿はなんだか新鮮だった。つばの位置をいじったりして遊んでいると、携帯の向こうで私を観察していたらしい荒船と目が合った。洋服を選ぶような感覚になっていた私は、少し楽しくなって「似合う?」と聞いてみた。けれど。

「微妙だな」
「……まーたそういうこと言うんだから」

荒船はつばを掴んだかと思うと、ぐりぐりと真正面に合せながらそう断言した。まるで正しい位置以外の被り方は認めないとでも言いたげに調整をしている。

「そこはお世辞でもいいから褒めてほしかったなぁ」
「俺がお前にお世辞なんて使うと思ったか」
「それもそうだね」

言われてみればそうなのだ。荒船はお世辞みたいな、そんな取り繕うような遠慮を私には向けない。いつだって真っ直ぐで、それ故に私は耳が痛い思いをすることもあるのだけど、だからこそ生まれる彼との距離感に心地よさを感じている。真正面から向かい合うようにこちらへ届く荒船の瞳を私は見返した。彼の視線は今、出来映えを確認するかのように、帽子と私との間を行ったり来たりしている。お互いの瞳を覗き込める近さ、距離、間柄でいる私たちに、もう一歩、なんて未来がくるかどうかは正直まだあやふやである。

「──よし、これがいい」
「お、私もちょっとは荒船みたいにかっこよくなった?」

出来上がった私のスタイルに、荒船が満足そうな声をあげた。つばはきちんと前を向き、視界も良好。さすが、被り慣れている人は違う。私も嬉しくなってそんなことを口走ったのだけど、何故か荒船はきょとんとしては、何度もまばたきをして私を見ていた。何もおかしなことは言ってないはずなのに、と私もぽかんとする羽目になる。

「……お前でも、そういうこと思うんだな」
「へ?」

ぽつり、と一人言のようにこぼした荒船の言葉を、呑気な私はすぐに咀嚼することができなかった。ただ彼だけが、何かに納得したようにふわりと口元を緩めて「オンナノコ、なぁ」と呟いて笑う。

「なに、何の話?」

話の先が見えなくて、なんだかおいてきぼりを食らったような気持ちになったせいか、口を尖らせるように物を尋ねてしまう。

「俺は男だから、かっこよくなったとかは思わねえけど」

けれど、荒船はそんな私に動じることなく、私をまっすぐに見てきた。少しだけ目元が細められて、柔らかな視線が私に向けられる。

「お前のそういうとこは、たまに可愛いと思うって話」
「そういうとこって──え、」
「そーやって、たまに馬鹿みたいに素直になるとこだよ」

するすると落とされていく言葉のすべてに私の理解が追いついたとき、荒船はもう腰かけていたベッドから立ち上がって、仮眠室のドアへと向かうところだった。
私も慌ててその背中を追いかけるように布団から飛び出して、靴を履く。けれどその間中、頭の中は先程の彼の言葉がぐるぐると駆け回っていた。荒船が私のことを、可愛いと思ったりする、らしい。カッコイイとは思わないけど、カワイイとは思うって。単純にそれだけで、なんだか嬉しくなってしまう私。正直言えば、それがどんな意味を以てして言われた言葉なのだろうかと、思いを巡らせそうにならなくもない。けれどきっと、荒船の言葉に深い意味なんてないのだろう。だって彼はお世辞とかそういう類いのものは、少なくとも私には向けないのだ。単純に、言葉の意味を綺麗に受け取るだけにする。
そこから導かれる答えが、あやふやな私たちの未来をはっきりさせるわけでもないけれど。それでも先を歩く荒船の耳がちょっとだけ赤くなっていること、見て見ぬふりをして、追いついたらそっと隣に並ぼうと思う。

まどかなる恋路

9th September '15
title by Nightjar